8来訪者



 水の中をたゆたうような感慨がある。醒めかけの夢のふちで、私は懐かしい言葉を拾った。

 目が覚めても手を握ったままだった。それをゆるゆる開くうち、自分の中に確かな形が現れる。声に乗せると、それはじんわりと熱を持って、私の喉と耳とを懐かしく震わせた。
「――ハル」

 ――思い出した! 思い出した! 私の名前!

 いてもたってもいられずに、勢いに任せて寝床を蹴とばし、帳をはためかせ、私は廊下を駆けた。
 誰かに聞いて欲しくてたまらないのだ。

「は、ハルっ、ハル! ハル!」

 駆けて駆けて、一番に見つけた帳は淡い若草の色をしていた。色を見るなり飛び込んでいた。

「あのっわた」
 私の名前は――
 声は最後まで続かずに、一瞬世界が消えたかと思うと、私は天井を正面に眺めている。少し遅れて襲ってくる息苦しさに、背中を丸めたかったけれど、それも叶わないまま、天井に向かって咳をした。つばの雫が落ちて顔にかかる。自分のものではない、温度の高い液体も、私の頬に落ちてきた。お腹の上で、もさもさとしたものが身じろぐ。
 目を開けると、獣の長い鼻がこちらを見下ろして歯をむき出しにしていた。一瞬驚いて身を竦める。次の瞬間、言おうとした言葉が、すでに胸のうちにないことに気づいて、私は愕然とした。
 ――私の、名前……
 出てこない。
 代わりに喉は嗚咽を吐いた。苦しい。苦しい。思い出せない。顔のすぐ側で唸り声がして、肺が潰れるような重みが圧し掛かったけれど、だからと搾り出されるわけでもない。私はろくに声も漏らせないまま、目の奥を熱くする。頬を雫がたらたら流れた。威嚇の声。落ちてくる獣の涎より、熱い涙が顔を濡らした。
 もうだめだ。せっかく思い出したのに、私の名前はもうどこにもない。
 ああ、と呻きが聞こえる。首をめぐらせる気力もない。急に重みが胸から退いた。咳き込んで、私は背を丸くする。苦しくてたまらない。不意に熱が背中に触れた。とまどいながら撫でるそれが誰かの手だと気づいた時、正面がまぶしさに支配されて真っ白になる。
「――何事ですか」
 聞いた事のある声だと思った。ただそれだけの理由でまた息が苦しくなる。
 背中を撫でる人の手が、私の上に跨る獣をそっとどかした。唸り声は止まないけれど、「どうして?」とその獣は鳴いた気がする。
「お前」
 どすのきいた声。私は寝転がったまま顔を拭って、戸口に立つ影を見上げた。
「カナ」
 ああ私に呼ばれてこんなに憎悪をあらわに睨みつけてくるのはこの人だけだ。
「カナフシ、すまない。ビイナが怯えたようだ。君、怪我はないかい?」
 見知らぬ声とともに、あの暖かい手が肩に触れた。ずびばぜん、と、鼻を啜りながら身体を起こす私をその人はすまなそうに眉尻を下げて見ていた。背後から突き刺さる絶対零度の視線とは対照的なその眼差しに、私は涙とともに絶望を思い出す。
「わ、わたしの、名前」
「……君の名前?」
 優しく確認されて、所構わず泣き喚きたくなる私を、カナは冷たい睨みで黙らせる。ひっと、えづきとも悲鳴ともつかないうめきを漏らしてしまった。
「ご迷惑をおかけしたようだ。がきは引き取るから、どうかそのままくつろいでください」
 カナが敬語を使っている。そんな驚きも、私の悲しみに比べたら取るに足らないことなのだ。カナが腕を掴んで私を引きずった。痛い。肩や背中、むき出しの手足が畳みに擦れて熱い。だけど、私は何かまずい事をしたんだ。こんなダメやろうは痛い目に遭って当然なんだ。自分の名前も思い出せない奴なんて、テストがゼロ点でも文句言えないんだ。ああだけど、だからって、人生の評価まで赤点をくれなくたっていいじゃない。私だって、一生懸命生きてるんだぞ。名前が思い出せなくても、思い出した直後に綺麗さっぱり忘れても。

 ――ああやっぱり嫌だ! なんで忘れたんだよ! 私のばか!

 喉元に名残すら残らない、大切なもの。私はもつれる舌で、ばかばかばかと繰り返す。腕を掴む力が強くなって、私の身体は板張りの床に引きずり出された。ばしんと背中を強くぶつけたけれど、今更どこが痛んだって同じだった。私のアイデンティティーは、もう夢のまた夢に飛んでってしまったんだから。
 カナが、憎しみを込めた目で私を見下ろしている。口の中が鉄臭い。痺れるように舌が痛い。もういっそ噛み千切れればいいのに。
「お前は、なんだ」
 カナが問うた。そんなの、私が一番知りたい。今の私に、そんな残酷なこと、よく訊けるな。
 私は睨みあげる。カナのせいじゃないのは分かってるけど、今はもうそうするしか、まともに誰かの顔が見えない。
 カナなら私の頭を蹴り飛ばすくらいすると思ったのに、何故か目を逸らした。何か言おうとしたみたいだったけど、私の後ろから駆けてくる足音に顔を顰めて、反対の方へ歩いていってしまった。足音は私のすぐ後ろで止まる。それが誰だか、分からないわけはなかった。
 暖かいものが、私の首に自分の毛むくじゃらのそれを絡めてくる。顔を見られたくなくて、私は俯いた。
 「あの」と、下手に出てくる声がある。あの部屋であった人だ。そういえば、ここは部屋のすぐ外の廊下だった。カナめ、こんな所に放り出すなよ。
 その人は、傍らに獣を侍らせている。さっき私を引き倒した獣だとすぐ分かる。複雑そうにこちらを見ているもの。その獣の首をなでながら、男の人は私とカラとを見比べた。
「な、で、か」
 何ですかと応じたい気持ちは察してくれたらしい、彼は一度俯いた後、ある一つの言葉を私にくれた。
「ハル、さん?」
 ああ私、もう死んでもいい。


 私はカラの背にへばりついて、にやける顔を毛並みに押し付ける。
「ハル」
「も、もっかい、言って下さい……」
「ハル」
 カラはちょっと戸惑うような声音で私の名前を呼ぶ。ああ、いい響き! 私の名前、だって。
 身体の芯がふるふる震えるような快感。他の人たちは、どうして普通に名前を呼ばれていられるんだろう。こんなに心地よくて、昇天しそうな幸福が、どっと胸に溢れるのに。 
お返しみたいに、うっとりしたままで、獣の大きな耳に顔を寄せた。
「カラ」
 ぴん、と震えて、カラは擽ったそうにもじもじした。ああもうこの巨体が愛らしい。その太い首にしがみついて、わきゃわきゃしたいぞ。
 私とカラが縁側に転がっていると、廊下の角を曲がってくる人影があった。
「お前達」
 館さまの驚いた声。カラの首にさばりついたまま、つい、満面の笑みを浮かべてしまう。
「館さま!」
 彼の人は微笑むと、私たちの側まで寄って、カラの鼻を撫でた。
「カラニシ、お前の子に、名を与えてやったのか?」
 カラは私をぶら下げたまま、小さく首を振る。館さまはくすくす笑って、カラの首の下の私に目線を下げた。その何かを待つような穏やかな表情に、私はいきなり緊張する。
「あ、あのっ、私、名前を思い出したんです! は、ハルって、呼ばれてたんです」
 噛み付くように声を上げる私の前髪に触れて、「――ハル」と館さまはささやいた。うわあ。なんだ、恥ずかしいぞ。
「はい」
「良い名だね。よく思い出した」
 ああ、褒められた! 何だろう、テストが満点だった時みたいなこの嬉しさ!
 えへへと笑う私の頭をぽんと叩きながら、ふとカラに向かう。
「この子が名前を失ったままなら、お前に名づけさせようかと思っていたんだが」
「えっ?」
 初耳だ。思わず首を離して、床にお尻をつけてしまう。カラはどんな顔をしているんだろう。仰いだ獣の瞳は、いつもよりその茶色が陰っていて、なんだか寂しげに見えた。
 沈黙するカラに、館さまはふっと表情を緩めると、カラの顎をさすって、思い出したように私の頭を撫でる。
「――ハル、客人を紹介しよう。おいで」
「あ、は、はい!」
 名前を呼ばれたことへのこみ上げるような嬉しさと、大きな獣の憂うような瞳の色が一緒になって、私は返事をしてから、カラを見上げた。私の視線に気付くと、無言で背中を押してくる。
「ハル、お行き」
「――ハル?」
 館さまが廊下の角で足を止めている。今行きますと声をあげて、カラの鼻面を抱きしめると、呆気に取られた目をするカラを置いて、館さまを追いかけた。


 その人は、クベライと名乗り、隣の獣を示して、ビイナと紹介した。
「クベライ、さん」
「クベライ、で結構だよ」
「でも、ずっと年上ですよね」
 それに恩人だ。本来なら様付けしたいくらいだ。
 その人は困ったように笑う。
「呼ばれ慣れないので、畏まってしまう」
 私は頷いた。食い下がって恩人を困らせたいわけじゃないのだ。
 もともとここでは、あまり年長者を敬称付けで呼ぶ事がないみたいだ。文化的なものというより、獣は舌足らずが多いので、たぶんまどろっこしいのだろう。話したがりのニキですら、自分より一回りも二周りも大きな獣をほいほい呼び捨てる。慕わしそうにしながら、様をつけて呼ばれるのはここでは館さまくらいかもしれない。
 クベライさん――クベライの集落でも、そうなのかもしれなかった。

「あの、私はハルと言います。さっきはありがとうございました。それと、いきなり逃げてすみませんでした。……あ、それから、いきなり部屋に特攻して、すみませんでした」
 言いながらものすごく申し訳ない気持ちになった。なんなの私。ダメじゃん。恩人に対してなんて失礼な。
 思わず両手を前について前かがみになりかける私を制すと、クベライは微笑んだ。
「いや。お役に立てたようでよかった。怪我は平気?」
 正直言うと、先ほど館さまの後を追いかけながら身体が軋んだ。さっきまではテンションが上がっていたから、忘れていたんだ。くそうカナめ。
「平気です」
 心で泣いて顔で笑う。館さまは、カナフシに注視してくれようとしていたらしいけど、懇願してやめてもらった。そんなの絶対倍返しされるに決まってる!
「後で手当てしてもらいなさい」
 と館さま。
「さて、うちの娘が世話になった。クベライ殿、礼を言う」
 娘……また感動させないでください。
「いいえ。私は何も。ビイナの狼藉を免じてくださって、こちらの方が感謝しなければ」
 ビイナさんはぴくりともせず、館様と私の方を見つめていたけれど、話は聞いているのか、おずおずと鼻先を畳に垂れた。
 狼藉……って、いきなり侵入してきたうつけ者を確保したことでしょうか。
「ほんと、すみません」
 私はビイナさんに負けじと頭を下げる。なぜか館さまとクベライに笑われた。できの悪い子供を見守る親のような優しさを感じて複雑である。

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