7火の手



 そのまま寝ていることができなくて、部屋を抜け出た。
 真っ直ぐ進めば迷うこともないし、今朝も確か同じ道順を歩いた。このまま行けば、ミノクシと獣と出会った縁側に出られるはずだ。
 そう思ってはいたものの、いざ見覚えのある帳を見つけるとほっとした。夜の屋敷はどこか昼間の穏やかな雰囲気とは違う、例えるならお化けでも出そうな、ちょっと不気味な空気が漂っている。加えてここの人たち……じゃなくて、鬼たちは夜目がきくから、明かりがどこにも灯っていない。何かにつまづいて転ばないようにとゆっくり歩いてきたけれど、正直すごく怖かったのである。
 私は安堵と夜の空気に直接触れる緊張感の両方を胸に抱きながら帳をまくる。日中とは違うひやりとした風が肌を撫でた。上着の前をかき寄せて、どこか神妙な気持ちで縁に降りる。私の重みに小さく軋んだ音が、いやに大きく響いて聞こえて首を竦めた。
 ――夜目が平気というなら、今だってたくさんの鬼たちが起きて動いているんだろうに。
 何かが息づく気配は、あるといえばある気もしたけれど、私の存在に声をわずかに潜める虫たちくらいしか、はっきりとは分からない。
 ため息をついて、闇に潜む山間に目をやった。
 ――私、やっぱりただの人だと思うんだけど。


 二度目のため息をつくために吸った息を、私は一瞬ののちに飲み込む。
 ――なにか、光った?
 目を擦る。山は相変わらず静謐を抱いているけれど、心なしか作り物らしさが漂う気がした。
 ――! また!
 同じ場所がまたちらりと赤く揺れた。その瞬間、辺りの木々が浮かび上がって見えた。
 一定の間隔を置いて、点々と明かりは灯る。繋ぐと一筋の線になった。
 誰かがあそこにいるんだ。でも、ここの鬼たちは夜に明かりを使わないはずなのに。
 なら、あれは――。
 私は縁側から飛び降りた。誰かの脱ぎっぱなしの履物を拝借すると、また一瞬きらめいた光に向かって駆け出す。
 ――あれは、鬼じゃない。
 鬼じゃないものが、鬼の里の近くにいる。


 私は焦燥感に駆られて飛び出した。山へ続く裏木戸を見つけると、そこから草生した道に駆け込む。
 藪に服の裾を取られて、何度こけたか分からない。
 それでも足を止められなかった。瞼に焼きついた明かりが、不穏に揺らめいてしかたがなかった。


 どのくらい走ったのだろう。道を拓くのに振るった腕を、太い枝に押し止められて強くぶつけた。骨の髄まで響くような痛みに悶絶して、足が止まる。初めて自分の荒い息に気づいた。
 頭に血が昇って、ただ光に向かって急ぐことだけに頭が集中していたから分からなかったけれど、ずいぶん深くまで入り込んだらしい。
 ――たぶん、もうすぐ着くはずだ。
 そう思って、絡む蔦の先を睨む。更に深い木々の枝葉が、一瞬光に照らされて形を現した。とっさに屈んで身を潜める。間近で焼きつく炎の色に、視界がチカチカとした。
 低い姿勢のまま、草葉を掻き分けて作った隙間に潜り込む。音を立てないようにその方向へと這って進む。
 そう行かないうちに、折りきれなかった枝が跳ね返って頬を傷つけた。鋭い痛みに悲鳴を上げそうになる口を腕で押さえる。ぬるりとした感触に、涙が滲んだ。
 ――私、なんでこんなことしてるんだろう。
 こんな、尾行のまねごとをする意味があるんだろうか。私がこんなことしなくたって、鬼たちは気づいているかもしれないのに。
 ――でも、気づいていないかもしれない。
 私一人が頑張ってもどうしようもないことかもしれないけど、あの光を灯す『人』たちが何かしたら、そのときは走って知らせに戻ろう。それくらいはできる。ここまで走ってこられたんだから。
 ――今までの私も、こんなことできたのかな。
 暗い山道を、光もなしに走る。
 頭の中で言葉にして、ぞっとした。


 じわりじわりと這い進んで、灯った明かりがいやに強く瞬いた。
 初めて誰かの気配をその場に感じて、私は息を呑む。
 ――近づきすぎた?
 身をさらに地面に添わせながら、じっと動きを窺っていたときだ。突然横から骨ばった手が伸びて、とっさの悲鳴ごと私の口を塞いだ。
 身体が竦む。頭が真っ白になった。押さえられた口の中で、歯がカタカタと音を立てると、そこから伝わった恐怖が身体を震わせた。後ろから抱え込まれるような体勢で地面に伏すと、相手の温度が伝わった。自分よりもずっと高い温度をしている。
「声を立てるなよ」
 耳元でささやく声には聞き覚えがあった。昼間会ったときのあけすけな調子はずいぶん押さえ込まれているものの、耳に馴染む色は変わらない。
 一瞬力が抜けた。
 ――ミノクシ。

 ミノクシは暫くじっと身を潜めた後、ため息をついて沈黙を破った。私も一緒になって肩を下ろす。緊張して強張っていたせいか、うまく口を動かせない。
「あ、あの、み、ミノクシさん」
「あーびっくりした。お前こんなとこで何してるんだよ。俺は心臓が止まるかと思ったぞ」
「す、すみません」
「いいよ」
 頭をぽんぽん叩かれる。私が気の抜けた顔をすると、ミノクシはひょうきんに首を傾げてみせた。ふっと真面目な声を出す。
「いいけど、でも他言はしないようにな。お前が今見たことは、皆が知っていて覚悟している事だが、お前から聞くと余計な勘繰りをする奴もいる」
「……はい」
「よし、いい子だ」
 私が噛みしめて頷くと、頭に乗せたままの手でくしゃくしゃとかき回された。
「……といっても一部だけどな。どいつもこいつも頭を使う事はだいたい苦手だから――」
 ひゅっ、と、火薬のはぜる音がした。私たちは同時に同じ方角を向く。ミノクシの舌打ちが聞こえて、気づくと彼は走り出していた。思い出したように、風に乗って言葉が届く。
 ――ついてこい。
 理解するより先に足が土を蹴っていた。ミノクシは速度を容赦しない。私はどんどん離されながら、耳に残る嫌な音の余韻を辿って追いかける。不意にミノクシの足音が聞こえた。追いついた、と思うと同時に、何かの焦げる臭いが鼻を突く。視界の先には自然の石室があった。私の体ほどもある大岩がいくつも重なって、その上を太い蔦が這っている。屈めば大人が何人も入れるようなスペースが地面との間にできていた。――臭いはそこから漂う。草葉の隙間から、橙の色が明滅する。
「――火の手だ」
 ミノクシは苦々しく吐き捨てる。息を切らしてその背中に近寄ってみると、橙の火明かりは石室のそこかしこに灯されていた。火種は赤赤と燃え、その勢いは増しているように見えた。このままでは、森に燃え移るのではないだろうか。
「ど、どうすれば……」
 耳を澄ませるように立ち尽くしていたミノクシが不意に顔を上げて、懐から何か取り出した。差し出されるままに受け取ると、ミノクシは自分でも同じ物を握り、その鞘を抜いた。赤い明かりがその刀身を鋭く煌かせる。
「手伝え。左の支えを切り落とせ。俺は右へ行く」
 ミノクシは刃の先で方向を示すと、震える私の肩を掴んで言った。
「丘の一番低い背の、白い蕾の木の根に楔がある。その縄を断ち切れ。俺もその後すぐに切る」
 真っ直ぐで鋭い眼に、怯えている場合ではないと悟る。私は手の中の小太刀を無理やり握りしめた。
「は、はいっ」
「良い子だ」とミノクシは柔らかい声を出した。そのまま耳もとで叫ばれる。
「――行け!」
 号令に背を押されて藪に突っ込んだ。急な傾斜だが、山肌が削られて、引っかかりやすいような根も除かれている。それでも何度も手を着いて這い登る。わずかになだらかになった斜面に、白い蕾を見つけると、私は無我夢中でその鉄の杭にさばった縄を切り落としにかかった。刀身の当て方が分からずに、何度も刃を擦り付ける。焦って手が滑り、なかなか断ち切れない。
 ――早く、早くしないと……!
 汗で視界が歪むその先、枝葉の隙間に禍々しい明かりが見えた。頭が真っ白になって、思い切り小太刀を手前に引いた。ビインと弾ける音がする。すぐ後から、よく似た音が反響して谷向こうで聞こえる。それから一個間あけて地面が揺れ始めた。遠くの清流の音が、始めはゆっくりと、側へ近づくにつれ勢いを増す。もう立っていられない。突然の轟音が身体のすぐ真下を押し流すような感覚に必死に歯を食いしばって、私は白い蕾の木にしがみついた。極限の疲労と恐怖に、いきなり意識は電源を落とした。


 まだ身体が揺れている気がする。
 私は目を覚ますなり、横たわったまま目を回した。薄暗い部屋の中で、わずかな明暗の差が交じり合って、型のない形を創る。恐れて身じろぐと、部屋の外から声が届いた。
「目が覚めたか」
「館、さま?」
 帳は月光を通さない。ただ風に揺れるその面の向こうに、見えない輪郭を意識して私は呼んだ。
「館さまっ」
「よくお休み。お前が火の手を消したことは聞いている」
 声は柔らかく「ありがとう」と帳を再度揺らす。私は床に腰を置いたまま身体を起こすと、隙間から入り込む夜気に鼻を啜った。
「今までも、あんなことがあったんですか」
「ああ」
「どうにかしなくていいんですか? もしミノクシが気づかなかったら、今頃――」
 私は両腕を抱いた。想像したくない。泣くのもいやだ。顔を背けた先の闇に、焼きついた炎の色を見て瞼を閉じた。せめて嗚咽を漏らすまいと、蒲団に顔を押し付けた。館さまは静けさに耳を澄ますように沈黙しながら、空気を壊さないような穏やかさでもって語り始める。
「知っているよ。奴らは特別な<道>を持っている。里近くの山あいにその陰を潜ませて、ときどきああしてやってくる」
 ――なら、どうしてそのままにしておくんですか!
 私は鼻をすすり上げた。声にならない声を聞いて、館さまは息を吸い込む。夜気が乱れる。私は息を呑んで耳を澄ませる。
「私たちは人が憎い。奴らを一人でも多く食らうために鬼はいる。この里がある」
 館さまは黙する。ざわめいた森の空気がまた土に沈む。私はたまらない孤独を感じて床を這い出る。帳を払うと、暗闇に浮かび上がる木々は眠っていた。中天の月は雲間に潜んでいる。館さまは縁にひとり胡坐をかいて夜の闇に沈み込む里を見下ろしていた。隣にしゃがんでその裾を引く。館さまはゆるりと微笑んで私を見た。
 ――なぜ、と私は口を動かした。声に出すことを憚からせる静けさが、帳の外には落ちていた。
「獲物は油断させておくほうが良い」
 夜のような声だった。何者も脅かさない穏やかさと、温度のない優しさをはらんでいる。
 そうして告げておきながら、館さまは目を細めた。その瞳に憂いが浮かぶ。館さまの悲しみは、私の感情を映しているだけだと、明瞭な言を告げられた後だから分かる。
 私は顔を押さえた。泣くわけにはいかなかった。
 館さまは、触れたら私の我慢の糸が切れるのを知っている。私が勝手に自分をさいなむのも知っている。だからただ、優しい声だけを降らせた。
「部屋へお帰り。よく休みなさい」

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