9獣の心
お前は遊んでおいで、と館さまは私の肩をそっと押した。
難しい話が始まるのだろう。本当は聞きたい。クベライとビイナさんは『客人』だ。この集落の鬼じゃない。館さまが嫌っていないのだから人でもない。
――他の場所から、この里に二人で用を持ってきたんだ。
それはどんなものだろう。楽しいお祭りの打ち合わせとか、そういうのだったらいいけれど。
ビイナさんの髭がぴりぴり震えているのが、何だか私に嫌な予感を抱かせた。
忘れていた感覚を思い出す。
じわりと考えるより先に浮かびそうになる涙をこらえて、なんとか頷くと、クベライが横のビイナさんに何かささやいた。獣は腰を上げる。
「ビイナもつまらないようだ。付き合ってやってくれるかな」
私は思わず赤茶の獣を見つめた。全然考えの読めない、体より少し濃い色の目が見返して、私たちはしばし沈黙する。
「行っておいで」
私はおずおずと頷くと、部屋を出る。獣は少し遅れて、同じように帳をくぐった。
「あの」
「――ハル」
私の呼びかけに、穏やかな低い声が重なった。ビイナさんの後ろから、優しい獣が姿をのぞかせた。彼は呼びかけてから、そこに慣れない獣が一匹いることに気付くと、戸惑ったように瞳を揺らす。
ビイナさんはちらりと私の顔を一瞥すると、何のアクションもなく私とすれ違ってしまう。
ふと、この獣は足音をさせないことに気付いた。
私はカラと二人、ビイナさんの消えた廊下の先を見つめた。
所在なく、カラとともに例の日当たり良い縁側で茂る草を眺めていると、クベライが現れた。目が合うと瞳を細めて笑う。穏やかな嘆息を落として近づき「ビイナがすまなかった」と軽く頭を下げられた。
私はぼんやりとした頭を捨て、慌てて首を左右に振る。クベライはちらりとカラを見て、「邪魔してもかまわないかい」と訊いた。大きなものが頷く気配。クベライは笑いをこぼして、私の隣に腰掛けた。
「君はこの里の鬼ではないんだってね」
何だか居心地が悪くなって、傍らのカラに気持ち身を寄せた。
「……はい。私としては、鬼じゃないような気がするんですけど」
クベライはふうんと腕を組む。
「だけど、人ではないな。ヌカズキさんもそうおっしゃっていただろう」
ヌカズキさん。ヌカズキさん?
私の黙考に「ああ、館さま、だったね。すまない」と悪びれずに訂正して、クベライは私の向こうに寝そべるはずのカラを一瞥して続ける。
「鬼は、人の身と姿を同じくする僕らは特にね、鬼と鬼でないものの区別がはっきりつかないんだ」
私は少し考えて、後ろのカラを振り返る。つぶらな瞳が見返した。クベライは私の疑問に気づいたらしかった。
「カラニシは特別だ。他の鬼に分からないものや見えないものを捉えている。カラニシが君を、鬼でなく人でないと言ったなら、それ以上に正しいものはない」
――特別。ぴんとこずまじまじ見てしまう私に、カラがくんと鼻を鳴らした。
鬼でなく人でない、そこに何かの理由を見出したなら。
「――だから、私を拾ってくれたの?」
カラは何も言わない。面倒なのではなくて、返事をしたくないんだ。ごめんね、という気持ちを込めて撫でると、拗ねたように目を伏せる。
カラの行動に、好意以外の理由を求めたくないのはわがままだ。何も考えていてほしくないってことだもの。
ていうか何? 何この思考。私そんな風に思ってたの? うわあ、カラの優しさを邪推して、あげくになんて乱暴な希望を。私ってばひどい。ひどい。あんまりだ。
とってもネガティブ。ネガティブついでに気を逸らしたくて、思い出した人物の名前を挙げた。
「……カナは? カラの双子なんでしょう?」
それにしては、人だと言って食べようとしてきたぞ。あいつめ。
掌の下でカラの額がぴくりと動く。クベライが気まずそうに笑った。
「カナフシは、鬼も人も分からないよ。人を憎む気持ちは、他の鬼よりあけすけだし、実際強いけれど」
それはカラの影響なんだろうか。私は少し話題を変えたくなって尋ねた。
「普通の鬼は、人が分かるんですか?」
「分かる」
「自分と同じ、鬼は分からないのに?」
クベライは笑って頷いた。
「クベライも?」
「カナフシ以外は、きっとどの鬼も分かるよ」
どうしてと、私が訊くのを見越したように、クベライは続けた。
「人さえ分かればいいんだよ。極論じゃなく、他のどんな区別を捨てても、必要なんだ」
「……憎い、から?」
館さまの顔を浮かべて尋ねる私に、この温厚そうな青年は頷かず応じた。
「食うために」
私は急に悟った。
――クベライは、館さまと人を食べるための話をしにきたんだ。
私は悩む。カラのしっぽがパタンパタンと動いて、時おり背中を撫でるけれど、それすら気にならないくらい、深く頭を悩ませている。
ううむ。
ここでいう『人』って、すごく残虐な、それこそ皆が、あの火を放った連中みたいな犯罪集団だったりするのかな。
私はぶるりと身震いして、跳ねる尻尾を捕まえた。
「それって、すごく怖いよ」
カラは無言で尾を振った。するりと抜け出るそれを見つめていると、人の気配が近づいた。こちらに分かるように、ぎいぎい足音をさせている。振り返ると、深緑の瞳がおどけたように瞬きした。
「何が怖いんだ?」
「……人が、すごく怖くて危険な人たちだったらどうしようかと思って」
ね、と目配せすると、カラはぶるりと身を揺らして、庭のほうを向いてしまう。預かり知らぬという態度だ。
ミノクシに笑われた。
「そんなことはない。誰に吹き込まれたんだ」
自分で考えたと言ったら、また笑われる気がしたので黙る。ミノクシはにやにやした。
「火の手が恐ろしかったのか」
図星。思わず目を逸らすと、意外な言葉が降ってきた。
「俺も恐ろしい。里に火が回っていたらと思うと身が竦む」
声の調子は軽いけれど、何故だがそれが本当だと分かった。だけど、どうしてそんな砕けた表情なんだ。
「怖そうに見えないです」
「怖い、恐ろしい」
言い含めるようにゆっくり紡いで、ミノクシは唇を緩めた。
「だが俺には、里が全てではない」
そんな勝手な。
ミノクシは私の思いを感じ取ったように、薄っすらと笑う。
「俺だけではない。鬼は全て、捨てなければならないものはすぐ捨てる。里も身内も」
その目がちらりと、遠くで肉を食らう獣の姿を捉えた気がした。眇めても見ても、私には分からない遠くの友を、きっとミノクシは一瞥した。じっと草向こうに姿を探そうとする私に、ミノクシはあっけなく声音をかえた。
「お前の目の先、どこでもいい。どこにでも人はいる。そこで文化を持ち、営んでいる」
私はやっと、茶色い点がいくつか里山を跳ねるのを見つけた。
「同じように?」
「そうだ」
その声が夢を語るようだと思った。私は横に胡坐を掻く青年の姿を、一抹の希望とともに見返した。
「なら、どうして、人を殺さなくてはならないの?」
ミノクシはその輝く瞳で肩を竦めて笑った。
「殺して食って、根絶やしにしてやりたい」
私は自分の中にほんのり芽生えたものが、どういう望みだったのか、一生思い出せない気がした。
感づかなかったわけじゃない。
生きるためにとか、迫害されて仕方なくとかそういうわけではないんだなとは、鬼達と話せば分かった事だった。
喜々として、鬼達は人を狩ろうとしている。
私には、全然、少しも共感できない。確かに火を放った人は憎いし、卑怯だと思うけれど、みんながみんなそうじゃないと、さっきミノクシがそう言った。
――本当に、里の鬼みんなが人を、ミノクシたちのように思っているんだろうか。
人がみんなそうじゃないなら、鬼だってちがう考えを持つものがいたっておかしくないはずだ。
私は傍らで石像のようにじっとしていたカラを縋るような思いで見上げる。ミノクシが去ってからこちら、この獣は時々目の前を飛んでいく羽虫に鼻をぴくぴくさせる以外の動きをせず、目を閉じたままだった。
「カラ」
呼ぶと、そよいでいた髭が不自然に動きを止めた。不本意そうに瞼を上げて、私を見下ろす。
「カラも人を食べたい?」
「ハルは人じゃない」
これは、肯定なんだろうか。私がじっと見返すと、べろりと舌を出して、顔を舐められた。ああ、ごまかそうとしているな。
静かに落ち込む私に、もふもふと身体を押し付けてくるカラの向こうから、元気のいい駆け足が迫ってきた。
「カラ! みずあびいこう!」
ぼんっと鞠のようなものがカラにぶつかる。私はくらくらしながらカラの横から顔を出した。
「水浴び?」
ニキはきょとんとした後、カラと私を見比べた。
「よめ?」
「よめじゃないです」
否定すると、ニキは変な顔をして、やっぱり私とカラとを見比べる。思わず習ってカラを見上げると、ぷいと顔を逸らされた。
なんなんだその反応は。
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