6理由



 ミノクシと打ち解けて話すうち、この集落の事が少しずつ分かってきた。例えばミノクシと獣がちょうどそうだったように、彼らは狩猟によって食べ物を手に入れている事とか、他にも野菜を育てている畑もあるということとか。
 「それに」と言いかけて、言い難そうに続けた。
「人の町も、下の方にはあるからな」
 ――やっぱりちゃんと文化があるんだ。
 カナの靴とか館さまの屋敷でも思ってはいたけれど。
 物珍しく頷く私に、ミノクシは苦笑してみせた。その緑の眼が、頭上を越えてカラを映している。
「本当に何も知らないみたいだな。まあ、考えがあるならそいつが見抜くだろうが」
「カラさん……」
 私はちょっと考えてから、後ろの獣を振り返る。ずっと昔から一緒みたいに親しい空気をくれる彼は、確かにその柔らかい栗色の眼に理知の光を持つみたいだ。じっと見ると、やましい考えを全部見透かされそうで、怖いといえばそうかもしれない。いやいや、そもそもこんな気持ちになっている事がやましいのでは。
 難しい思考が嫌になって、私はカラに手を伸ばす。それでいて触れるか否かのぎりぎりで留まると、鼻を向けはしてもそれ以上寄せてはこなかった。会ってから初めて、お互いの事を試すような距離が生まれる。私は手を下ろすときゅっと握って、近づきも離れもしないまま獣を見た。
「カラ……カラニシさん」
 思えば私は遠慮なしに昨日今日と、この巨大な口の、圧倒される体躯の生きものに飛びついたり泣きついたりしていたが、全く恐れを知らないというか何と言うか。いや、怖かったのだけれど、何となく被保護者としての、無知者ゆえに働く本能が、彼を危険に見せなかったのだ。恐れたら、目を外したら最後、取って食われると、それこそ怖がっていたのかもしれない。彼を彼として認識する事が、正しい彼の発露、自分の立場の崩落につながるのじゃないかと。
 そこまで考えて、おかしくなってしまった。
 ――だめになるも何も、まだそんな大層な関係じゃないのに。
 いきなり笑い出した私に彼は、ふと興味を持つような顔をした。昔を探すかわいそうな稚児ではなく、これからそうと知りつつ火中に栗を拾おうとする悪ガキに、何を思うでなく注目しているみたいだった。
 私は急に、言わなくちゃと思う。伝えなくちゃと思う。
「――カラって、呼び捨ててもいいですか?」
 獣は驚いた顔をした。それでいて私の真意がどこにあるのか、私以上に承知していそうな鷹揚さで微笑む。一声鳴いて、今度は言葉で私の気持ちに応えた。
「もちろん」
 カラは――そう呼んでいいのだ! カラはそれをずっと待っていてくれたみたいに、思いっきり伸ばして目尻に触れた私の手にそのまま擦りついた。柔らかい毛並みが手に絡む。そのまま首に抱きつくと、静観していたミノクシがため息をつくのが聞こえた。しかたがないな、と口で笑いながら、目はもの言いたげにカラを向いている。
「ミノクシさん?」
「――ミノクシ」
 なんだろう、と、食い違う目線につい声を上げると、ちょうど示し合わせたように誰かと調子が重なった。
 ――カナ?
 カラに半身を預かってもらいながら振り返ると、いつもの通り機嫌の悪そうな目と出会う。その視線はこちらを一瞥してゆがんだ後、ミノクシに向いた。義務的な口調が、館さまの用命を告げる。ミノクシはすっと眉を寄せた。その予測に答えるようにカナは頷く。
「次の仕事だそうだ」
「そうか。狩りから帰ったばかりなのにな」
 二言目は、待ちくたびれたのか、肉を腹に収めにかかった獣に向けていた。その諦観のにじむ声音に、獣は怪訝そうに鳴いて返した。
「次の狩りがあるんですか?」
 何気なく発した言葉だったが、飛んでくるどぎつい眼差しに、言うんじゃなかったとすぐ後悔が走った。そんな若輩の態度にもう表情を緩めながら、ミノクシは「そんなものだ」と、口に手を当ててじっとこちらを見る。そのどうとでも取れる返しに、カナは不満もあらわに、どうかしている、と呟いた。ミノクシは、小さな笑いをこぼしている。
「少し、気の毒だろうと思ってな」
 いい訳のような響き。カナはその視線を追いかけるまでもなく表情を曇らせた。私がその意味をはかりかねて見つめても、すぐに笑みによって全部が取り払われてしまう。
 カラは億劫そうな顔で回答を渋るので、仕方なしに私はミノクシと別れの挨拶を取り交わした。気遣いののぞける面持ちは、私がそれに気づくのを望んでいるようにも見えたが、カナが恐ろしい目で急かすので、結局なにも聞けずに終わった。去り際、ミノクシは、「いつも気を確かにな」と、いたずらに困惑させるような事を言って寄こす。その視線は私の背後に移ろうとして、思い直したようにカナを向き、すぐ二人連れ立って行ってしまった。


 ミノクシと別れたあと、カラの先導で部屋に戻ると、少ししてあの女の人がやってきた。汚れた手足を拭いてくれる。着替えさせてくれるみたいだったけれど、そこは昨日の決心だ。なんとか自分で着てみせる。寝間着とちがってちょっと動きにくそうなつくりをしている。下にはいたズボンはそうでもないけれど、膝まである長衣を上から着なくてはならなかった。ひとつひとつの留め具が離れていなくて、せっかくのズボンの伸縮性が抑えられている。
 うなりながら膝を曲げ伸ばしする私から、女の人は目を外した。それで、何となく分かった。
「私、ちょっとお庭に行ってきますね。手伝ってくれて、ありがとうございます」
 最後に受け取った飾り紐で髪をくくりながら、帳に向かう私を、女の人は黙って見送った。
 廊下を少し行くと、突き当たりを曲がったところで柔らかい壁にぶつかった。待っていてくれたそれは湿った鼻をすぴすぴ言わせて私を見下ろした。慈しむように瞳を和ませる獣の胸をそっと押して離れると、彼は悲しげに身を引いた。「ごめん」と呟く声が声にならない。代わりにカラが「行こう」と背中を押してくれる。それに応じて並んで歩きながら、温かさを素直に受け取れない自分が嫌だった。鼻をすする私に、カラは気づかないみたいに前を向いていたけれど、ときたまあやすように背中を尾が掠めた。


 何も考えず出てきたから本当に庭に行こうと思っていたわけではなかったが、カラの揺れる尾に誘われて、結局私は廊下を抜け、柔らかい日差しの下にさらされる。
 緑の草むらは私の膝丈ほどまでも伸びて、さやさやと風に揺られていた。先ほどミノクシたちと別れた庭とは別で、あまり人の手が入らないところなのかもしれない。

 縁側まで来て立ち尽くす私を置いて、カラはすとんと前脚から草むらに降りると、すぐそこに横たわって、まるで猫のように伸びっぱなしの草を食んだ。もしゃもしゃとやりながら、ちらりとこちらを顧みる。私は少しためらって、ずいぶん高さのある縁側に腰を下ろす。裸足の足首まで、柔らかく温かい緑が抱きしめてくすぐった。もう少し足の先を伸ばすと、見えない先から地面が触れた。しっとりと、やはり温かいそれにそろそろとかかとを付けて、心地を確かめながら降り立った。それを横目に認めたカラは、また大きな口を開けて傍らの草を捕まえる。私はそこまで歩いて、寝そべるカラの隣にしゃがむ。
「おいしいの?」
 言いながら、細い茎を手折る。白い蕾をつけたそれを、私は返事も聞かずに口に含んで噛みしめる。薬っぽい苦さが口中に広がった。顔をしかめる私を見て、カラは笑った。笑いながら噛み切ったカラの獲物の中に白い花をたくさん見つけて、今度は私が笑った。酷い顔で口の中のものを吐き出しながら、獣は自慢の尾で私の肩をばたばたとなぶった。

 いっぺん汚れてしまったらもう同じことと、私は長衣だけ縁側に残してカラと草の中に寝そべった。日光を浴びて香ばしく温まったカラの毛並みに頭を預けると、知らず知らずにあくびが漏れた。
 カラが寝そべったままこちらに顔を向ける。鼻先が近づいて、光に透けた髭の先がくすぐったい。「寝てしまっても良いよ」と言われている気がする。私は温かさの中でまどろんだ。


 温もりから伝わる衣擦れに私は身じろいだ。身を包む草のにおいも、ツンとした青臭さから、ふわりと包み込むような香ばしいものに変わっている。徐々に覚醒するにつれ、慣れない感触が自分に触れているのが分かる。
 ――頭……撫でられてる?
 カラかと思ったが、それにしては繊細な、指先を使うような仕草である。
 ――じゃあ、これって?
 とっさに瞠目した私は、目の前で自分の髪を梳く、他ならぬ人の手を発見して仰天する。
「……ああ、起こしてしまったか」
「え、え? や、ややや館」
 さま、とつけるのも忘れて真上の顔を注視する私に、その人、館さまはちょっぴり渋い顔をした。
「名前で呼ぶよう言ったろうに」
「そ、それより、あの、これは……」
 どういう状況ですか、と聞きかけるけれど、すっかり覚醒しきった頭はすぐ情報を整理して私に結論を教えた。
 館さまが、どこかの座敷で、私の頭を胡坐に載せている。
 ひ、膝枕だ!
 恥ずかしさで頭に血が上る。目を逸らしたいけれど、それでは慌てっぷりがダイレクトに伝わる気がして、私はなんとかその顔を見上げていた。館さまはちょっと困った顔をしたけれど、一度休めていた手でまた私の髪を梳き始めた。
「あ、あの、館さま」
「何だ?」
 拗ねたような声。名前を呼ばないからだとわかっても、私の口は同じ呼び名を繰り返した。
「館さま……あ、カラは?」
 そういえば、私はカラと昼寝をしていたはずでは。
「カラニシは出かけたよ。お前が起きないので、私に任せていった」
 カラってば、なんてことを!
 私が恥ずかしさに唇を震わせるのをどう受け取ったのか、館さまは梳いていた髪の一房を軽く引っぱった。
「い、痛いです」
 涙目になって抗議する。にじんだ視界なら見上げてもそれほど恥ずかしくない……と、考えてから、その方が余計恥ずかしいと気づいて顔を逸らした。館さまはくすりと笑ってから、小さくため息を吐く。
「昨夜は懐いたように見えたが、思い込みだったか。まったく、カラニシとは寄り添って眠るのにね」
 どう反応したものやら分からない。とりあえず視線をおそるおそる向けると、切なそうに細められた瞳とかち合ってどぎまぎした。
「鬼は皆私を父のように慕うのに、やはり人の子か」
「え?」
 館さまはすっと頬に触れてくる。爪の先でなぞられてひやりとしたけれど、それ以上にすぐそこにある瞳の夕陽色の深みから覗く表情に縫いとめられて身じろぎできなかった。
「しかし鬼の形のカラニシを恐れる様子もないのは不思議だな。人というのは生れ落ちたそのときから鬼の異形を厭うというのに」
「……館さま」
 やっと声を絞り出すと、返事の代わりに瞬きを落とされた。私は目を見開いたまま受け取ると、いきおい尋ねた。
「館さまは、私がきらいですか」
「きらわれるような何かをお前はしたの」
 聞き返してくる瞳は、いつの間にか優しさを取り戻している。それでも耐え切れずに私は言いつのった。
「わかりません。覚えてません。でも私は自分が人だと思います。人だと言われても違和感がないから。でももし私が人だったら、館さまは、私を」
「私は人がきらいだよ」
 ふわりと掌が口に被さって、私は息を止めた。館さまは手の温度と同じの優しい口調でそっと告げる。
「でもお前は人の臭いがしない。貪りたくはならない。お前がもし人ならば、膝の上に載せて、髪を梳き、一刻も寝顔を眺めたりはしないよ」
 館さまは唇で弧を描いた。
「……稚児のような顔をして、膝で眠るものだから。私と知ってそうしたわけではないのが分かって、意地の悪いことを言ってしまった」
 言いながら、私の髪を鼻先に寄せて玩ぶ。からかわれていると分かって顔に血が上る私を尚も笑う館さま。恥ずかしさと悔しさとで顔を逸らした。帳の隙間に茜色の日が落ちている。館さまは笑いを含ませたままの震える指で私の頭を撫でる。
「ごめんね」
「しっ、知りません!」
 心の中でバカ! と付け加えながら、少しほっとする自分がいることに気づいた。館さまは「泣かないで」と目尻に触れてくる。正直どきりとしたけれど、ばれないように慌てて怒った顔をした。目を合わせられなくてそっぽを向くと、ただ優しく後ろ髪を梳かれた。


 気がつくと暗闇の中にいた。ぼんやり浮かぶ天井に、ここが与えられた部屋だと分かる。
 今は何時だろう。虫の涼やかな鳴き声が昼間よりもずっと存在感を増している。夜遅い時間だったら、もう寝付けないかもしれない。
 今日は長い昼寝をしてしまった。館さまがここに運んでくれたのだろうか。そういえばそんな気もするが、記憶がはっきりとしない。そうだとしたら、恥ずかしい真似をしてしまった。子どもみたいだ。
 一人で虫の声を聞いていると、館さまのことや女性のことを思い出して憂鬱になった。
 ――館さまは、人じゃない、って、言ってたけど。
 でも、ならどうして、動きにくい服を着せるんだろう。それとも、ただの私の勘違い? 
 ……女性の後ろめたそうな表情を思い出して、私は唇を噛む。


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