5色づく世界



 部屋まで案内してくれるのは、さっきも会った女の人だった。そんなに広い屋敷なのか、とどきどきする私に、去り際、館さまは自分の名前を教えてくれた。「ヌカズキ」と言うらしい。そう呼んでいいとのことなので、思い切って声にした。
「ヌカズキ、さま」
「なに?」
「呼んでみただけです」
 えへへと照れ笑いする。この場にカナがいたら張り倒されただろうな、とつい辺りを確認する私に、ヌカズキさまは、妙に感極まった顔をしながら言った。
「それでは、お前の名はなんという?」
 私は、すぐ口にしようとして、ぽっかり開いた自分の記憶にでくわした。
「えっと、あの、その……」
 ヌカズキさまも気づいたらしい。とても切なそうに、「すまない」と頭をなでてくれる。私はとっさに言った。
「あの、思い出したら、真っ先に言いにきますから」
「焦らなくてもいい。落ちつけば自然と思い出すだろう」
 優しいなあと思う。ここの人たちは優しいのに、名前すら伝えられない自分が、情けないのを通り越してすごくいやだった。
 泣きそうなのをこらえる私に気づかない振りをして、ヌカズキさま――館さまは、女の人に私を送るよう頼んでくれる。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 館さま、と心の中で付け加える。この優しい人の名前を、答えられない自分が呼ぶのは、すごく後ろめたい事だった。


 壁で点々と灯る蝋燭の火を頼りに、前を行く背中を追いかける。真っ暗ならまだ見えるのだけれど、半端に明るいといまいち上手く歩けない。女の人も何度も立ち止まってくれるのだが、すぐにまた遅れてしまった。
「ごめんなさい」
 それに、謝っても女の人は黙って首を横に振るだけだ。穏やかな目をしているので、怒られてはいないと思う。もしかすると喋るのが億劫なのかもしれない。彼女だって、ここに住む獣のひとりなのだから。カナや館さまは例外なのかもしれないな、と、私はまた遅れかける足を速めた。
 案内された部屋は、館さまのところからそう離れてはいなかったので、私はついほっとしてしまう。女の人は私に先に入るよう促すと、手に持っていた包みを渡してくれる。ぎこちなくほどく間も、せかさず待っていてくれた。そしてでてきたのは、柔らかい手触りの布だった。
 ――これって、服かな。
 女の人や、館さまの着ているものと似た、それよりちょっと模様の多い、橙色を広げてみる。それと自分を交互に指差して尋ねると、当たりらしかった。頷いてくれる。女の人は私が着替えるのを待っているのか、それ以上その場を動こうとはしない。私もその見覚えのない形の服を前に途方にくれた。
 ――えっと、この紐はなんだろう。
 ちょっと摘み上げてみて、首を傾げる私に、女の人は合点がいったようだった。着られないの? というように目を見られて、頷くと、彼女は私に立ち上がるよう示した。あ、着せてくれるのか、と大人しく従う。とりあえず脱ぐくらいは、と手を掛けるものの、靴とちがってこれは難解な造りだった。女の人にもそうなのか、時々手を休めながら、それでも手際よく脱がせてくれる。(一瞬彼女の目が曇った気がしたけれど、なにぶん薄暗いので、たぶん見間違いだろう。)
 それにしても、と私は腕を広げながら思う。
 ――子供だよね。
 自分もそうだが、周りの対応がまさに小さな子に対するそれなのだ。ちょっと不思議そうにしながら、カナ以外の人は、それをそう抵抗なく受け取って、こうやってお世話をしてくれる。それに慣れかけている自分が何だか気持ち悪い。
 ――ちゃんとしなくちゃ。
 とりあえず、着せてくれる手の動きをじっと観察した。私のさっきつまんだ紐を、帯の上からきゅっと結んでいる。
 ――次からは、ちゃんと自分で着られるようにしよう。


 ありがとう、と頭を下げると、彼女は表情をちょっとだけ緩めて応えてくれた。蒲団を敷く手伝い――まあ私のためなのだが、それくらいはと挑戦した辺りから、打ち解けた目の色を見せてくれている。できの悪い子供を見るようなそれの気もするけれど、気のせい、気のせい。
 私が蒲団に入るのを認めて、彼女はふっと手燭を吹き消した。とたん室内に闇が満ちる。目が慣れると、帳をくぐって廊下に消える女の人の背中が見えた。やっぱり明かりは私のためだったのかな、と思うと、目頭に熱がこもった。袖にぎゅっとそれを吸わせて、私は目を閉じる。
 瞼の暗闇を見つめていると、夢はすぐにやってきて私を包んだ。


 翌朝、私は鋭い物音に目を覚ました。なんだなんだと落ちつかなく蒲団から這い出て、室内を見渡すと、昨夜の調度が天井近い明り取りの光を受けて色を持っている。そうか、鬼の集落に泊めてもらったのだ、と状況に納得しつつも、いまだ聞こえるその音に、ほっとしてはいられなかった。恐る恐る帳から顔を出してみるが、奥行きのある廊下には、誰の姿も見受けられない。
 ――ええい!
 私は傍らに畳まれた上着らしきものを羽織ると、勢い込んで、廊下へ足を踏み出した。
 誰かの話し声が、音と同じに聞こえてくる。それを目指してぺたぺたと歩くと、いっそう明かりが強くなる。
 ――外につながってるんだ。
 何やら言い合う声が聞こえていたが、ひとりでいるのもいやだったので、出口らしいその薄い帳に私は近づく。
 何だか変なにおいがするぞ、と思った時には、もうそれをくぐって、まぶしさに顔をしかめていた。


「あっ、お前、取りすぎだぞ!」
 うるさい、と言うように、その獣は獲物を口に引きずったままそっぽを向いた。土色の髪の青年が 手を伸ばそうとするのを、鼻に皺を寄せて牽制する。
「てめえ、調子に乗りやがって……あ?」
 ――気づかれた。
 私は帳の中に体を残したままで彼らを見ていたが、目が合ってすぐに腰をぬかした。
「い、いの。いのしし」
「イノシシ?」
 巨大なその獣が、血まみれで庭に転がっていたのだ。私はそれを、その生きものを知っていた自分にも驚いたが、何よりもその濃厚な血のにおいに、頭がくらくらとするのを感じた。がんっと、床に頭をぶつけた。誰かが駆け寄ってくる気配になんとか顔を上げたが、そこでもまた愕然とする。黒い血糊をしたたらせて、日の光に鈍く光る刃物が、すぐ側で揺れていた。
 ――刺される!
 ひっと喉が引きつれる。
「おい、大丈夫か?」 
 気づかいながら、青年はそれを離す気はないようだった。とにかく宥めようと、空の手を伸ばしてくるが、そちらも真っ赤に濡れていた。
 私は耐え切れず、盛大な叫び声を上げた。


「う、ううぇ」
「そうか、客人がいたのだったな」
 私はカラの顔にしがみついてひとしきり泣きわめいた後、まだやまないしゃっくりを引きずってその男の人を見上げた。人を食ったような顔をしていたのに、今は困惑の色が濃い。その手にはもう何も握られていないし、両手は彼自身の日焼けた地肌を見せている。私はカラにせっせと顔をなめられながら、微妙な顔でそれを見下ろす青年と、片割れの獣を見つめる。獣の方はまだ肉を口につかんでいたが、離す機会を失っただけのような、どこか間抜けな顔をしていた。それにカラよりも小柄なので、そこまで怖くもない。
「い、いきなり泣いて、ごめんなさい」
「ああ、それはいいんだが……」
 条件反射にしてもあんまりだ。頭を下げながら、カラの毛皮を離さない私に青年は失笑しながら、苦々しい顔で佇む少年に話を向けた。
「この子がそうか?」
「ああ。ばかげたことだがな」
「カナ」
 弟にいさめられて、カナはへそを曲げたみたいだった。「館さまに報告してくる」と言って、さっさと行ってしまう。そうか、相当でっかい声だったものな、としょげる私を、カラは湿った鼻でなぐさめた。
「ずいぶんカラニシに懐かれているな」
 ――カラニシ?
 誰だそれは、と青年を見上げると、隣で主張するみたいにカラが高く鳴いた。そっか、カラのフルネームか。
 ――皆、名前があるのにな。
 落ち込みかける頭を慌てて振って、私はいまだ青年と獣の背後に横たわるイノシシに目をやる。こういう状況を見たことがあるのか、私は思ったよりも動じなかった。知り合いに猟師さんでもいたのだろうか。
「でっ、でっかいイノシシですね」
「うん? ああ……」
 私の言葉に、ちょっと気を取り直したのか、いたずらっぽい顔を作ると、青年はイノシシのお腹に足を差し入れて――。
「うわっ」
 ちょうど顔が見えるようにと蹴り上げた。ものすごい脚力だ、と思うとともに、突き出た鼻から血を流すイノシシについ顔をしかめてしまう。地べたについていて乾かなかった血のにおいが、ぷんと鼻腔に満ちてくる。
 死体を足蹴にすることにちょっとした抵抗を覚えながら、興味を捨てきれずに私はカラの毛皮を引っ張った。ひとりでは怖い気持ちが伝わったのか、仕方ないな、というふうに腰を上げてくれるので、いっしょにイノシシの傍らまで寄ってみる。裸足をいやがると、男の人はつっかけを貸してくれた。もう鼻が慣れてきて、辛くはない。ままよと毛皮に触れてみると、意外にも少し柔らかかった。梳かすたびにこびりついた赤黒い砂がぱらぱらと落ちる。獣の垢じみたにおいが、手の動きに合わせてふわふわ漂った。
 ――生きてたんだなあ。
 触れているうち、怖さよりも感慨深い気分がやってきて、私はカラを見上げた。この大きな獣はこの獣で私の頭のにおいを嗅いでいたから、すぐそばに長い鼻がある。カラは目が合うなり尾をパタパタ振った。たぶん私も嬉しい顔をしていたんだろう。
「カラさんは、イノシシを食べるの好きですか?」
 わふんとカラは吠えた。当然ながらイエスらしい。横で見ていた獣も一緒に鳴いたので、くわえていた肉が地面にぼたりと落ちてしまう。私は二人のかわいらしい友達に幸せが込み上げるのを感じて言った。
「私も好きです。焼肉とか」
「――焼肉?」
 それまで黙っていた人がすっとんきょうな声を上げたので、そちらを向くと、変なものを見るような視線とぶつかった。
「そのままです。焼いて食べる……あ、そっか、生の方が好きなんですか?」
 そもそも、火を通して調理する習慣自体あるのかどうか。
 ――寄生虫とか、どうするんだろう。
 自分のお腹に触って不安になっていると、上の方から明るい、くだけた笑い声が降ってきた。
「いや、俺はまあ、そのまま食うのが好きだが、館さまや女衆はあまり生では」
 食べないぞ、と付け加えかけて、途中でまたこらえきれなくなったのか、口を押さえている。微妙な目で見つめる私がまたツボにきたらしく、しばらくひいひい言っていたけれど、終いにやっと咳払いをすると、「いいな」とにやにや笑った。
「お前、嫁にこないか」
「はあ? どこにですか?」
「そりゃ俺のとこにさ」
 当然、と自分を指して、きょとんとする私を却って面白そうな目で見てくる。私は昨夜のニキのしたり顔を思い出して白い目を返した。
 それともここでの嫁っていうのは、何か他の存在なんだろうか。そう思って一応聞いてみると、男の人はちょっと頭が痛そうにした。
「お前の言ってる事がいまひとつ分からないんだが」
「いや、例えば……猟の相方とか?」
 転がったままのイノシシを横目につぶやくと、青年は私を上から下まで見てから、怪訝そうに首を振った。
「できないだろう」
 いや、そりゃできないけれどさ。
 自分の貧弱な腕を見下ろして落ち込んでいると、それにな、と彼は苦笑して、肉のツマミ食いを始めていた獣に目を向けた。そこに好戦的な光を見つけて、私はちょっとしり込みした。
「そういうのは、ああいう奴らとの方がいい。遠慮がない」
 崖から放っても死なないしな、と笑う横顔は、年頃の男の人なら誰でもしそうなものなのに、と思ったところで、私の中に適当な例が浮かぶはずもなかった。つい笑ってしまって、もうちょっと冗談に付き合うのもいいかという気になる。何の事はなく、ただちょっと寂しかっただけなのだけれど。
「じゃあ、どういう子が好きなんですか?」
 好みのタイプは軽口にちょうどいいしな。そう思ったのに、笑われてしまった。
「別にそこまで丈夫になれと言っているわけじゃないからな」
 崖から――とそこまで思い出して、私はいやな顔をした。さすがにその流れから聞いたわけじゃないというのに。
 ――でも。
 言い返そうとして、昨夜の事を思い出す。慌てて首を横に振った。
 ――墜落してたら、たぶん死んでたもの。
 私の考えには気づかないでいてくれたらしい、男の人はちょっと思うそぶりをしてから冗談めかして言った。
「そうだな。なるべく、自分と同じような型がいい。こいつらは、ちょっと、難しいな」
「そりゃまあ……」
 と、少し離れて見ていたカラと目が合った。ちょっと切なそうな顔をするのは、気のせいだろうか。そう思ったのは私だけではなかったらしい、男の人は呆れを通り越して、ちょっと気まずそうに私と、後ろに控えた巨大な獣とを見比べる。
「カラニシ、お前な……」
 ぼそぼそと小さく、互いにだけ聞こえるような声で男の人が何か告げる。カラは顔色を変えなかったけれど、私と目が合うと少しだけ目を細めた。考えの読めない顔だった。
 戸惑っていると、男の人が今度は私に小声で言った。
「あまりカラニシに懐かれすぎるなよ。あいつはで木偶の坊そうななりで、頭はいいからな」
 いきなり近づいた顔にぎょっとして、とっさに頷く私を、男の人は哀れむような目で見る。そんな風にいきなり態度を変えられると、付いていけなくて泣きそうになるのでやめてほしい。


 男の人はいきなり顔をゆがめた私と、すぐ背中に寄り添ってきたカラにぎょっとしたみたいだった。それでもさすが情に厚い獣の仲間というか、ただ単に本人が優しいのか、戸惑いながらも頭をくしゃくしゃとなでてくれる。そのぎこちなくも暖かい手のひらに、私は半泣きのままぽつりと口にしていた。
「お兄ちゃん……」
 今度こそ「げっ」と声に出しながら、男の人はちょっと笑ってカラに目を走らせた後、のぞき込んで、言い含めるようにゆっくりと言った。
「――ミノクシ、だ。今度からはそう呼んでくれよ」
 そのいたずらっぽい笑みに、私の頭に像を結びかけた、誰かの懐かしい顔がぱっと霧散する。でも不思議と悲しくはない。
 私は少しずつ落ちつきながら、しゃっくりを飲み込んで、その優しい顔を見上げた。
「分かりました。……ミノクシさん」
 ミノクシは破顔した。鮮やかな深緑の瞳がきらりと光る。土色の髪といい、この人は森に愛された色を持っている。
 ――ほっとするなあ。

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