36双子の鬼
「ハル」
カラは鼻を引いて、私の名前を呼んだ。
とても静かな声で、だから一層、自分の浅ましさを責められるようで、だから私は反抗心もあって、ぐっと顔をあげた。
一度視界に入れたなら、カラの顔のどんな変化も見逃したくない。その目が少しでも熱を持つのなら、この作りものの心臓はたちまち止まるに違いない。
そんな気持ちで見つめた。観察した。気を失いそうになりながら。
「知りたいのか。おれのこと」
甘い響き。獣の言葉はいつだって優しく私の耳に入り込む。ずっと聴きたかったそれが、今は続きを聞くのがたまらなく怖い。
だけど私は、熱に占められた頭をいいことに、後先考えず頷いた。勢いのままに行動して、後悔ばかりしてきたのに、学習しない自分が嫌だ。今は自分を殺してしまいたいほどだった。
なのに、何一つ、がまんできない。
「知りたい」
カラはその大きな瞳をゆっくりと瞬かせて、
「いるよ。ハル」
自分の喉が小さな悲鳴をあげたように錯覚した。けれど、涙を流す気配はなかった。何かが爆発寸前にくすぶっているのに、私はそれを抑えてでも、知りたかったのだ。
「……どんな、人?」
「すべての人が、おれは、憎い」
「そんなの、みんなそうでしょう!」
勢い込んで咳き込んだ。私、必死すぎる。そうだ、私はこんなに必死になって、この優しい獣を傷つけることに躍起になっている。それでもカラは、私の鬼は、こんな私を、まるで稚い子供にするように見守るのだ。
「おれは、みなとはちがう。本当に、すべてだよ。ハル」
「本当のことを言ってよ、カラ」
懇願する。鼻に触れて、顔を両手で捧げ持つ。その口に並ぶ牙で、食いちぎられても構わないのに。
けれど私の情けない姿にも、カラは動じなかった。
だってその必要がないから。その余地がないから。
「おれは、本当のことしか、いってない」
それは真実を語るものの、己の潔白をすっかり承知しているものの、ゆるぎない平静さだったのだ。
「すべての人を食い尽くすまで、おれは、鬼をやめられない」
私は気がつけば、大きな獣を見上げていた。膝が地面を感じている。夜の闇より深い暗がりの中で、自分と、自分を見下ろす鬼としか、ここには存在しないように思えた。だけどそんな贅沢な幻想は所詮錯覚でしかない。
鬼は私の隣にどっかりと腰をおろした。語ってくれるつもりなのだ。自分のことを。
双子の鬼の話を。
――ひとりは、兄だった。
――ひとりは、弟だった。生まれる前に、自我を持った瞬間、己が死ぬとわかった。それは刃だった。自刃だけれど、ためらいのない、己を殺す凶器が振りかざされ、そして逃げることもできずに、その凶刃を身に受けた。即死ではなかった。
なぜ己が殺されねばならぬのか、幼い彼にはわからなかった。食い扶持を割かぬためなら、産んで捨てればいいではないか。なぜわざわざ、己の身を裂いてまで、この母が、我が子たる己を殺めねばならぬのだ。そして恐怖と激痛のためにわずかに身をよじり、悟った。己の体が母親とは違うことを。己の兄は、胎内でこのように思考しなかったことを。
――彼は奇形だった。
その土地では鬼と呼ばれていた。母は鬼の存在を知っていて、己の身に化物を宿していると知って、己ごと殺してしまおうとしたのだ。
「お前を、殺してやった」
そんな声が聞こえた。母からかけられた、初めで終いの言葉だった。
許せなかった。何が許せなかったのだろう。母も、母の同族も、己自身すらも。
けれど、苦しみのたうつ母の胎内にあって、声が届いた。
「おとうと、おれのおとうと」
わかった。声の主に覚えがあった。
泣く声は、兄のものだ。
母にすがって泣きながら、彼の弟を必死で呼ばう。己をまともな弟だと信じて疑わない声が、身重の母の自死に、泣き咽んでいる。兄はひどく痩せていた。母がまともでなかったせいで、兄もまともに生きてはいなかった。
彼はそのうちに死んだ。兄も、母を亡くして気力もなく死んだ。
ひとりはたまらない憎しみを抱えて死んだ。
ひとりは運命を恨みながら死んだ。
ただ互いのことだけは、気の毒に思った。
そうしたら、次の生では彼らは同一の個体だった。二つの想いが同じ体を共有していた。
兄弟は喜んでひとつになった。
『鬼』と呼ばれる、殻から生まれる仲間たちと暮らした。奇形の中で、鬼の中で、彼らはまともな暮らしができた。 『人』のことは憎らしかった。『人』さえなければ苦しまずに済むのは、この世でも同じだった。『彼』は夢中で人を狩った。仲間が、鬼たちがそうするように。
けれど、皆と同じようにはできなかった。同じようにしていても、違うのだ。皆のように、満足することがないのだ。この醜い体を終わらせることが、できないのだ。
苦しんだ。己よりも醜悪なものはないように思えた。
ならば人の全てを狩り尽くせばいいと思ったが、無理なことだと一度目の生で承知した。
人は、数が多すぎた。鬼が生まれるよりもずっと早く、人は増えた。彼は人を食い続けたけれど、全く追いつかなかった。
やがて彼は人に討たれて死んだが、まどろみののちにまた生まれた。同じことをやったが、同じように実りはなかった。彼は何度も死んだ。決まって人に殺された。
そしてしだいに弟は、兄にすまなく思うのだ。兄だけならば、このようなひどい繰り返しをすることはなかったはずだ。兄だけならば、自分が兄を放せば、あの優しい兄だけはほかの鬼のように、死ねるはずなのだ。『おれ』は初めから終わっていたが、兄は元は人なのだから。
そして、弟は願ったのだ。
兄と自分が、別々になれるように。
そしていつか彼らは、双子の鬼として、分かたれて生まれた。
話を終えた鬼は、得意げに笑った。
「――だから、カナはもう大丈夫なんだ」
そんなカラニシを見上げて、落涙を承知しながらも、私は構わず声をかけた。
「……カラは、それでいいの」
「うん、大成功だ」
よく喋って、流暢になっている。
本当に、いたずらをやり遂げた子供のように、獣は全身を震わせた。
「驚いただろう」
「……どうして?」
膝の上で拳を握った。美しい獣の喜ぶ顔が、私にそうさせる。
「どうして自分から、ひとりになるの。嬉しくないのに、嬉しいふりをするの」
「おれは、本当に嬉しいんだよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「そんなの、嘘じゃなきゃ、やだ。私はいやだ、そんなの。ひとりになって寂しくないなんて、カラがひとりを喜ぶなんて、そんなのは、私はいやだ!」
「それなら――」
その一瞬、カラの瞳が、艶かしく見えた。けれどすぐさまその色は消え、代わりにいつも以上に穏やかな視線を私に向けた。
「もう遅いから、帰ろう」
カラは有無を言わせなかった。
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