37カラニシの心



 鬼は人を間違えない。憎むべき相手を忘れない。けれど、ダメなのだ。お前だけは。
 かわいいハル。
 食えるものならいっそ食ってしまいたい。



 早朝。
 冷え切った空気の中で目覚めたのに、不思議と全く寒くはなかった。
 首に回された腕で昨夜の出来事を思い出し、一番に確かめたのは、隣に眠る少女の温度と鼓動だった。その寝顔の安らかなことを知ると、安堵しながらも罪悪感がのしかかる。
 傷だらけの小さな体。手足を汚す泥も、血の染みも、全て自分のために彼女が被ったものだ。愛おしくてたまらなくなる。他人の心配や同情ばかりしている、気の毒な娘。こんな汚く醜い『鬼』という獣すら、少女の目には捨て置けないものとして映るのだ。

 自分を『人形』だと言った。そう伝えながら、傷ついているようだった。人でない自分を不完全だと思っているのだ。

 ――おれが、そう思いたいだけかもしれない。

 馬鹿だとわかっている。早く逃げ出すべきなのだ。この上等な心を持つ、壊れやすいくせになんでも請け負う哀れな子供をどうにかしてしまう前に、消えるべきなのだ。人と比して少しくらい丈夫にできていたとして、それが獣の前に何の救いになるだろう。柔らかい皮膚も細い骨も、しなやかな動きも、鬼の牙一つで簡単に壊れてしまうのに。ましてこのように気を許して眠るなど、命を差し出すのと同義だ。
 それなのに。

 ――『食べられてもいい』

 一夜明けたというのに産毛が逆立つ。

 自分の中の鬼というけだものとしての約束は、この腕の中の小さなぬくもり一つによって破綻する。

 ――お前を食う前に、おれはおれを殺そう。

 それは新たに生まれるまでの短い眠りを招くだけで、ほとんど意味のないことだけれど。そうと決めねば、この子供のそばに侍ることを自分で許せはしなかった。

 ――俺は判断がつかないわけではない。

 食いたくなってしまっただけだ。

 人を食らえば食らうほど、我慢がきかなくなるだけだ。

 丸ごと、そのにおいさえも残さず、腹に収めてしまいたい。

 ――おれは本当は、お前が食べたいんだ。



 ハルは人に似ている。人よりも己の害になる存在だと、一目見てわかったのだ。それはきっと、おれが幾たびも繰り返すなかで知ったこと。この子供は人でなく鬼でなく、おれは自由に感想を持てる。野の獣に対するように、愛らしいと思えば庇護すればいい。うっとうしくなれば見捨てればいい。
 子供はまっさらで、まるで生まれたばかりのようだった。そして初めて見たおれを嫌わず、懐いた。かわいらしい、と思ったのだ。守ってやろう、と。

 鬼の子は捨て置いても目的を知って生きる。この子供にはそれがない。本当に頼りない、けなげにただ生きるだけの生き物のようだった。
 おれは自由に考えるということの意味をわかっていて、手元に置いたのだ。
 自由な思考はもう、おれのまともな、それまでのくくりをたやすくほどいてしまっていたのだろう。

 他の鬼のように対象のある生ではないおれは、たやすく心奪われた。あいていた。生きることに。うえていた。生きることに。おれはこの、人のようで人ではない生き物に、己の失った人の姿を求めたのだ。

 けれどおれは鬼である。鬼の他の生を知らない。人といえばおれを産まずに殺してしまった、憎み、憎まれる母しか知らぬ。
 鬼であるということは人が憎いのだ。ただ漠然と、他の鬼と同じように、人を殺すことを求めている。俺たちをこんなものにしてしまった人という種を、根絶やしにしてしまわないと済まないのだ。そうして襲いながら、ただひとつ、真実の死を与えてくれる救いを求めている。そのただ一個の命を己の牙で断つことが、鬼が鬼をやめる唯一の手段なのだ。
 俺たちは、皆、例外なく真の死を得たいのだ。

 だが、おれは。
 おれは人を襲う。命を奪う。だがおれがいくら殺しても、その血は絶えず続くのだ。
 おれの憎むのは、人のすべてだ。そして人は絶えない。
 おれには、終わりがないのだ。
 おれの約束だ。獣の、鬼の。鬼を外れたおれの、けれど鬼として定められた決まりだ。殺しても殺しても、おれはやめられない。人が憎いからだ。おれが鬼である限り。

 だがハルは。愛らしい、人の姿をしながら人でなく、それゆえに鬼を憎まないこの娘は。

 ああおれは、初めて、己の心で何かを得たい。この娘を掌中にしたい。失いたくない。

 食ってしまいたい。

 危なっかしいこの生き物を。
 他の鬼に警戒心なく近づき、思惑なく心を震わせて回る、考えなしなこの娘を。
 鬼は獣である。理性などあってないようなものだ。そのようなものがあって、己の前身を牙にかけられるものか。

 カナ以外の鬼は、危険だ。あまり近寄ってはいけない。だがそのようなことを器用に伝える口もない。言えたところで、ハルに理解されるとも思えないが。

 この人に似た娘が里を出ると決めた時、おれは悪くないと思ったのだ。鬼から、おれから離れるのが、結局一番良いことかもしれない。鬼でなければ、わざわざこんな山奥に息を潜めて暮らす理由もないのだ。ハルはそれでいいのだ。おれの独りよがりで危険な望みを、叶えなくてすむ。

 そしてハルは去った。
 そこにどんな理屈があろうと、おれにはそれだけで十分だった。ハルはいなくなった。帰ってきてもいいと言ったが、戻らなくて元々だと、おれは承知して送り出したのだ。
 人を殺そう。人を食おう。獣の定めに従って、そうしていればいずれまたどうでもよくなる。カナを手放したおれには、何も残っていないのだから。

 おれはハルと出会う前と同じように、里を出ては人を襲う。カナも、よせばいいのに率先してそうした。馬鹿な兄貴。必要のないことだ。だけれど、その変わらない無茶がおれを助けた。カナがいなければ、おれはためらったかもしれない。ハルは人に似ていたから。

 ふと思い出した。人を殺しながら、人を口にしながら。その血を舐めて、吐きながら、ハルのことを。

 いつからかわからない。
 おれは人を殺すのが、楽しくなっていた。高揚した。
 他の鬼はひょっとしたら、いつもこんなに愉快なのか。求めてやまないたった一人の『人』に似た、他の名もない人を食う、鬼のさが。

 こんなに心踊るものか。いつか食うのだ。本当を。本物に似た偽物で爪を研ぎ、いつかの時を思いながら。

 そうだ。
 おれはハルを殺すことを思いながら、人を食った。

 狩を終えて里に戻るたび、おれは己をかきむしった。なんてことを。おれは何を考えているのだ。こんな残忍は許されない。

 そしてまた堪えきれずに、おれは狩に及んだ。時々己を呼ぶハルの声が幻聴になって耳を弾いた。そんな時は決まって、おれは俺の下に組み敷いた体がハルでないことを確かめ、安堵し、そして虚しくなるのだ。

 どのくらい経ったか知らない。それはまどろみながら、濡れた体を干していた時だった。
 ニキの血のにおいがした。
 またしくじったのかと耳をすませて、通り過ぎる足音を聞いた。
 そこに混じる、懐かしい息を聞いた。

 足元が崩れそうになった。
 それは求めてやまないものだった。
 二度と見てはいけないものだった。
 おれはすっかり、おかしい。幻だと思った。幻であれと願った。歓喜に震える己を、崖下に落とした。岩肌に抉らせて、その痛みが真実であり、遠くなるその息遣いもまた確かにおれの耳を震わせていることを知った。

 ハルが、帰ってきた。

 おれはがむしゃらに駆けた。おれはおれを殺そうと思った。ひとまずこの生を失えば、二度とハルには会わないだろう。考えなしに飛び出して、野の獣に噛みつかれ、槍を受けて石を投げられ、火矢を受けた。あと一息と思った。あと少しで死ねる。けれど、ダメだった。おれは死ねぬ。おれは生きねばならぬ。おれだけは、死んではならぬ。
 無様だった。野に生きるもののような真の純粋さも、人のような遺すものへの未練も、この体にはないのに、おれは死ねないのだ。
 気がつけば、這々の体で逃げ出していた。
 気がつけば、上天に月が輝いていた。
 気がつけば、おれは、目の前の害に対処していた。

 小さな悲鳴だった。

 聴覚が研ぎ澄まされた。視界が一瞬で晴れた。おれの目は、見つけた。
 赤い血が、その細い腕からこぼれ落ちる。

「――ハル」

 ――傷つけた。

 殺してしまう。
 殺してしまう。
 ハルを、おれが、殺してしまう!

 おれは、おれの名を呼ぶ娘を見た。知られてしまった。この浅ましい獣がおれだと、知られてしまった!

 逃げ出した。
 ハルは追ってきた。やめてくれ。やめてくれ。おれをお前から遠ざけてくれ。このけだものを。もはや鬼の倫理もなくした、けだもの以下の無益な命を。

 月明かりがおれを晒した。気づいた時にはもう、ハルは空から落ちてきた。
 全身に土と葉クズを引っ掛けて、白い肌に数えきれない傷をこさえて、上がった息で、泣きそうに笑っておれを見た。

「ただいま」

 ――遅いじゃないか。

 帰ってくるなら、遅すぎた。

 ――なんで。

 おれはもう、お前に懐かれたおれでない。

 ハルはおれに手を伸ばす。触れた肌が怖いくらいに柔らかで、暖かい。

 ハルはわけのわからないことを言った。いつもそうだ。この娘は、いつもなにか考えていて、それは往々にして的外れだ。なのに、いつも傷ついて泣くのだ。
 今も、おれに嫌われたと言って泣く。
 そんなわけはないのに。ばかだ。この娘は、本当に、ばかなのだ。

 おれはハルに近づいた。ハルに嫌われても、傷つけたくなかった。守ってやりたかった。笑える話だ。一番傷つけるのはおれなのに。こんなにお前を食べてしまいたいのに。

 おれが好きだと言うと、それだけで、腰を抜かすほど驚く。ハルは一体おれのなにを見ているのだろう。おれはお前がこんなにかわいくて、そんな己が恐ろしくてたまらないのに。

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