35いつかの蛇




 突然飛び出していったことを謝ると、カラはどこか怯えたように私を見た。そしておずおずと近寄って、手を舐めた。私はその鼻を撫でる。
 この獣は、私が気分を損ねたと思って、こんな顔をするのか。
 たまらなくなった。

「大嫌いなんて、言ってごめんね。全部、嘘だから。そんなこと思っていないから」

 太い首へしがみつきながら、ミノクシの言葉が頭をよぎった。
 カラは、鬼をやめてしまいたいのかな。
 『カナを吐き出してでも』。

 ――そうまでして、望むこと。

 ああ、めまいがする。


 胸いっぱいに、森の空気を吸い込む。充足感。
 何かできることはないかと聞いたら、鬼の首領は逡巡した末、私が引かないとみると、里やその周囲の森の地理を覚えるようにと命じてくれた。

 ――館さまは、私がカラにくっ付いて帰ってきてから、すぐに呼んで、話してくれた。

 これからのこと。
 鬼は人を、この森に誘い込むつもりだということ。
 すでに人は、里に奇襲をかける算段をしていること。
 それは、もうすぐそこまで迫っていること。
 伝えた後で、館さまはじっと私を見つめて、何か待つみたいに黙った。私はそれが館さまの、私にくれた最後の猶予だとわかった。
 嫌なら、怖いのなら、この里を出てもいいと、赤い瞳が静かに言うから、私は真剣にその想いを受け止め、突っぱねた。
 離れない。
 カラに対する責任とか、そういうことじゃない。私の気持ちは変わらない。時間がないのなら、何か急ぐこともあるだろう。今からではたくさんの貢献は難しいだろうけれど、それでも、何かあるはず。
 そんな私に、館さまは里の散策を言い渡したのだ。

 いざという時、地理が明らかでなければ何もできないということらしい。それはもっともだった。帰ってきたばかりだし、あまり里の周辺にも詳しくない。私はセミナさんの手伝いや、教わったカラの傷の手当てをしながら、空いた時間を学習にあてた。といっても里を歩いて記憶を確かにしたり、鬼の顔を覚えたり。里の周りを元気になったニキと一緒に何度もめぐって、目印を教えてもらったりもする。役に立つというより、それ以前の問題だった。
 
 私は森の中で深呼吸する。
 この季節に咲く花。
 流れる水音と、澄んだ匂い。
 風向きや湿度で分かる、獣の位置。自分の今いる場所。
 蛇の五感をフルに使って、なるべくたくさんの情報を、一度に手に入れる。

 ――目だけでは違う。鼻だけでも耳だけでも駄目。

 つぶさに判断するには、私の持つ全部の感覚器を使わなくてはいけない。
 「ちゃんと、ぜんぶだよ」とニキは真面目な顔で言った。鬼の中では今でも小さく幼いあの子は、私の頼れる先輩なのだ。

 今日は昼ごはんの支度を手伝った後、少し空いた時間で森へ出た。
 目を閉じて静かな森を感じていた私は、そこに割り込む違和感に顔を上げる。
 知らないもの。
 獣じゃないもの。

 ――いる。

 私は息をのんで、緊張した全身でとっさに周囲に意識を走らせる。
 気付いた。
 知らない臭い。
 知らない動き方。

 ――異物が、森の中にいる。


 その気配はこちらを発見してはいないようだったけれど、逃れられない速度でまっすぐこちらへ向かっている。その者の通り道に私がいるのだ。
 身を隠せる場所を、と周囲に目を走らせるけれど、潜んだ動きで悟られるだろう。
 私は身を固くして、呼吸を止めた。気配の消し方なんてわからないけれど、それしかできなかった。

 願わくは進路を変えて違う方角へ。
 そんな私の儚い想いは、ごく静かな枝葉の揺れによって裏切られる。覚悟した私の前に現れたのは、人の姿だった。

 その視線と姿を認めた瞬間、私の頭は真っ白になる。

 ――蛇。

 銅の髪と、意志の強そうな同色の瞳。彼の姿は記憶にあった。
全身から汗が噴き出しそうになる。そんな私に対し、その蛇はこちらを縫いとめるようだった鋭い視線を緩めて、肩を落とした。

「あなたもいたのか」

 緊張をほぐしたような声と態度。一瞬意図がつかめない。それでも私は何とか頷いてみせた。
蛇の協会で、この人とは一度だけ顔を合わせた。名前は覚えていないけれど、彼の持つ色は印象的だったから、すぐに同一人物と分かる。

「ここへはどなたの指示で来たんだ」
「……言えません」
「そうか。そうだな。俺も言えない。すまない」
「いいえ」

 健闘を祈っている、と少年の唇が弧を描く。同年代の男の子なのに、すごく大人びて見える。大事なことをやり遂げるために、決心を固めた顔。迷いのない目。私は胸に湧き起る罪悪感を抑え込んで、彼と同じ表情になることを祈りながら笑い返した。

 少年が背を向けて去った後、私は胸を押さえてその場に座り込んだ。手が肩が膝が、こらえきれずに震え出す。  体の反応をそのままにさせて、やっと落ち着いた頃、私は地面にしゃがんだままで目を閉じる。

 鬼と一緒に逃げた私のことを、どうして彼は知らないのだろう。
 イーシャが黙ってくれているとしても、誰も気付かないなんてことはないはずなのに。

 それでも幸運だった。
 私のことを知っている蛇に見つかったなら、きっと迷惑がかかる。
 ばれなくてよかった。

 だけど、なんでかな。
 覚悟をしたつもりだったのに、こんな当たり前のことで、大きな嘘をついたような気になっている。
 すぐに変わるなんて、無理なんだろう。
 私は弱虫な体を抱きしめて、立ち上がる。
 館様に、伝えなくちゃ。
 人に従う蛇が、もう森にいること。

 館様の寝所に招かれて、私は先ほどの件を伝えた。館様は驚いた様子もなく聞いてくれて、話し終えて息をついた私を手招いた。おずおずと立ち上がって傍へ行く。館様の瞳が近づいて、いつかのように部屋が夕暮れに染まっていることに気づいた。
 息をのむくらいにきれい。彼の抱えている人への、あの人形師への気持ちの重さのせいだと今の私は知っている。
 よく砥いだ刃物みたい。ううん、獣の牙みたいに。
 清らかではないけれど、私はすごく好き。
 そう。
 人よりも私は鬼が好き。
 ここの所何かにつけて浮かぶ言葉を、また私は心で繰り返す。
 唇を鬼の赤い目にあてがいたいと唐突に思った。強い力に酔ってしまいたい。そうしたら、ただ一番大事な気持ちだけ貫いていける。
 この鬼も、ううん、この里に生きるすべての鬼が、ほかの全てを排してでも、なりふり構わず望む存在を心の真ん中に持っているとわかっていても。見ないふりができる。

「――あ」

 館様の指がのびて、私の唇をおさえる。
 衝動に気づかれたかと、どきりとした。

「泣きたいって顔をしてるよ。ハル」

 指が触れたところから、震えが広がった。頬がひきつる。目の奥がちりちりと焼ける。そのとおり、唇から、頬、まぶたと、思い通りにならない感覚を追いかけるように優しく撫でられる。そこから感情がじわじわとにじみ出て、湧き出て、おさえきれずにこぼれてしまう。頭の後ろを大きな手に支えられて、私は暖かい胸に飛び込んだ。
 しがみつく。
 ここにずっと帰ってきたかった。
 鬼でも人でも蛇でもなく、私を私として受け入れてくれる。
 館さまの胸に誰がいても、その人の命だけを生きるあてにしているとしても、この手は私を暖めてくれる。
 涙に溺れそうになりながら、確かに受け止められている安心感から、私は何にも構わずわんわん泣いた。




 カラが、へそを曲げていた。
 夜半、どうしているかなって、彼のための座敷へ行ったら、私の顔を見るなりふんと鼻をならしたのだ。

 館さまの部屋で醜態をさらしたあの後。
 泣き疲れてぼろ雑巾みたいになった私を憐れんで、このまま泊まってもいいって言われたけれど、館様だって疲れているんだから、長々と私のお守なんてさせられない。
 後ろ髪ひかれながら井戸まで走って、顔を洗って、そのまま自室に戻る気にもなれなかった。そこでこの獣が恋しくなったのだ。
けど。


 私の方を見ないままで、座敷の戸をくぐり、治りの悪い傷を引きずってずんずん歩く。一度立ち止まって「乗れ」とつっけんどんに言われたけど、私は遠慮した。それでますます毛を逆立てて、子犬みたいに膨らんだ顔でぷりぷりとお尻を振って先へ行く。

 再会して、大嫌いだとつっぱねて、仲直りして。
そしてまた、今。

「ねえ、何を怒ってるの?」

 なんでも知りたいと思った。獣は私を裏切らないだろう。どれだけ私が好きといっても、彼は厭わないだろう。何を言われても、どんな態度を取られても、きっと私は本当の意味で傷つくことはないに違いない。

 ――ねえ、私のこと、どう思う?

 そう尋ねることに不安はない。この獣の気持ちだけは信じられた。私のために、私から逃げた。そして今は逃げずに、こうしてわかりやすく自分の気持ちを伝えてくれている。

 泣きはらして、泣き疲れて、体はくたくたなのに、心はすっきりしていた。
 私はこれで、鬼のためだけに生きられる。やっと、人を裏切ることができた。人のための人形ではなくなった。私は自由だ。

 私は獣を追う足を止めた。うつむく。ぼんやり浮かび上がる足が見えた。二本の、一見すると人と同じ、獣に比べれば頼りないそれ。

 ――ねえカラ、今の私をどう思う?

 『蛇』であった事実なんてかすむくらいの、私の中にあるこの気持ち。
 それを知ったら、カラは悲しむだろうか。

 自分の想像で、私は胸が高鳴るのを感じる。
 おかしいね、カラ。
 私はすっかり、本当に、出来損ないの人形みたいだね。

 ――ちくりと、胸が痛い。

 鬼が振り向く。
 この里で誰より立派な体躯で、強くて。なのに誰より鬼らしくない獣。
 今も不安そうに、反応のない私を訝る。
 さっきまで怒っていたのが嘘みたいに、足早に近寄って、うかがうように私の手を嗅いでいる。柔らかくて湿った鼻に手の甲で触れながら、笑いがこぼれた。

「ねえ、カラ。聞いてもいいかな」
「?」
「カラにも、いるの?」

 よせばいいのに、尋ねずにはいられなかった。

 理性をなくして、気遣いをなくして、私は何になるのだろう。傷つけるかもしれない、そうでなくても、カラがいい気持ちにはならないとわかりきっている質問を、ぶつけていた。

「殺さなくていはいけないと、心に決めた『人』が、いるのかなあ」

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