13別れ
「何か訊きたい事があったんじゃない?」
縁側の板敷きに腰を下ろしたクベライは、いきなりそんな風に口火を切った。ホントに酔ってたのかな、と思うけど、言いながら空になった盃を口に運ぶ当たり、やっぱり酔ってるんだろう。
「聞きたいこと、ですか?」
「うん。だって君は鬼じゃない」
「人でもありません」
言ってから、自分の声がむきになっているみたいに聞こえて、なんだかばつが悪くなる。クベライは気にした様子もなく盃を隣に置いた。「そうだね」
「――あの、いつ、なんですか?」
沈黙を裂いて口を開く。私が鬼じゃないからとクベライは言った。だから、きっとあるだろう『人』との戦いのことを示したんだと思う。
――だけど、聞いてどうするんだろう。
私が心中でしたみたいにクベライは笑うと思ったのに、間を置かずに真面目な声が応えた。
「一月か二月か……近いうちに」
「はっきりと決まったわけじゃないんですか?」
「そうだね。僕が帰って、また方々への使いと話を合わせて、必要があればまた参じて。事を起こす前に、またこちらにも使いを寄こさなくちゃならないし」
大掛かりな話みたいだ。クベライの集落と、館さまの集落と、それだけの話じゃない。もっとたくさんの鬼が関わる。
ざわりと戦慄が走った。さっき館さまと話していたときよりも、ずっと身体の芯が冷える。
「ここも」
「うん?」
「――この里も、」
続きは言えなかった。足元から山の方へ、ずっと伸びた夏草が夜風に揺れて香ばしいにおいを運ぶ。くすぐられた鼻がつんと痛くなった。
――どうしたら。
声にならない言葉に、同じように山間を見つめていたクベライが、そんなわけはないのに、聞こえていたみたいにこちらに顔を向けた。目を合わせた私に、にっこりと笑う。
「短い間だったけど、楽しかったよ」
――さようならの言葉だ。
声を出したら喉から溢れそうで、私は一つ頷いた。クベライは私の羽織をかけなおしてくれると、目礼で応じる私に「どうしてだろう」と小さく呟いた。目が合うと困った顔で笑う。
「どうして、君に、こんな話をしたのかな」
――それは。
私は目を閉じる。
――それは、きっと私が鬼でも人でもないからだ。
翌日クベライとビイナさんは里を立った。
――結局、ビイナさんとは最後まで話せなかったな。
見送りの際、クベライはとてもあっけなく手を振って、里の入り口からビイナさんと山道を下っていってしまった。さすがというか、ビイナさんに跨ることもなく、私が苦労した獣道もさくさくと進み、その後姿はすぐ見えなくなる。
クベライもクベライだけど、一応の体裁で見送るのが私を含めて館さまとカラとカナだけなのはどうかと思う。館さまも社交辞令で旅の無事を祈るとか口にしていたけれど、心が入っていない、薄っぺらな言い方だったし。
だけど、つまりきっと、
――「またすぐ会える」。
と、そういうことなんだろう。
それにしたって情に厚いとは言えないよね、と、隣で同じように後姿を眺めていた館さまを見上げると、ちょうど目が合った。私は非難するような顔をしていたのかな、館さまはちょっとばつが悪そうに肩を竦める。ミノクシみたいな所作だなあ。そういえばミノクシは何してるんだろう。昨夜は遅くまで飲んだらしいから、まだ座敷で潰れていたりして。
「館さま、俺は失礼します」
私が館さまを見つめたまま黙りこくっていると、一歩下がったところで控えていたカナが言った。館さまが頷くと、会釈してすぐ背を向けてしまう。別れ際に、私の横にどっしりしゃがんでいたカラに目配せしていたけれど、なんだろう。双子の絆?
「一人で考えたい事がある」と、カナに続いて里の中へ門をくぐろうとする私を、館さまは何も言わずに見送った。カラは迷う仕草を見せたけれど、結局その場に留まった。一人でと言った手前、招くのもどうかと思って、私は見ない振りをする。ごめんね、カラ。
部屋に戻る途中、台所の前を通りかかると、セミナさんがササモチを持たせてくれた。裏と表に焦げ目がついているから、お焼きにしたんだろう。
――お焼き、かあ。
昨日の残りらしいそれを自室の卓に置くと、私は座布団の上に胡坐をかいた。ちらりとお皿の上の二つのお焼きを見て、うーんと頭を抱える。
私、たぶん、ていうか絶対、そういう文化のある暮らしをしていたんだと思う。
今までも、ちょいちょいと、こうやって何となく言葉や習慣を思い出すことはあったのだ。
思い出すきっかけさえあれば、もしかしたら全部思い出せるんじゃないかな。
きっかけ。
うーん、きっかけ。
頭を悩ませたけれど、疲れるだけで答えは出ない。私はササモチに手を伸ばして、もぐもぐと食べる。
おいしい。
じゃなくって、えっと、懐かしい感じは……するようなしないような。
私はとりあえず二つ食べてしまうと、空になったお皿の前に突っ伏した。
とりあえず急ぐわけじゃないから、置いておこう。
今一番考えなくちゃいけないのは、たぶん、昨夜のクベライの置いていった話の方だ。
鬼と人との戦い。
そう言うと、何だか現実味がないように感じてしまう。
だけど、もうすぐ、一月か二月かの間にそれは起こるんだ。というか、私は今「起こす」側に置いてもらっているんだよね。
でも私は鬼じゃなくて。
だけど、人でもなくて。
――人?
私、今まで、彼らの言う『人』に会ったことがない。
ミノクシは、怖かったり、危険な人たちばかりじゃないって言っていた。同じように文化を持っているとも。
鬼達は人が憎いけど、じゃあ、人は?
皆が皆、鬼が憎くてたまらないんだろうか。
私は目を覚ました。明り取りが西日を入れて、部屋の調度品と空の皿を赤く染めていた。
口の中に、甘い味が残っている。
――セミナさんに、返さなきゃ。
懐かしい匂いがした。今までも、夕刻になると、味噌や、野菜を茹でる匂いが館の中に漂っていた。いつもこれが懐かしくて、油断すると涙腺が緩む。今日は寝起きで、余計に鼻を啜ってしまった。
炊事場の前で目をなるべくこすらないようにぬぐって、木戸を開けた。土間でしゃがむ背中が、振り向いて腰を上げる。『どうだった?』と、私の手から皿を受け取ってくれるセミナさんに、嬉しさと切なさが込み上げた。匂いと相まって、気持ちがふわふわとする。
この人と仲直りできて、良かったなあ。
「すっごく、おいしかったです」
セミナさんは微笑んで、火にかけた薬缶を示す。お茶を淹れようとしてくれるみたいだった。私はほとんど突発的に、行ってしまおうとするセミナさんの腕を取った。
首を傾げられる。鮮明になっていない頭のまま、私は口を開いた。
「セミナさんって、人のことを、嫌いですか」
優しかった表情が、いきなり凍った。彼女の腕を取った私の手が震えるのに気付いて、すぐ困った顔になる。
困らせた。困るようなことなんだ。
どうしよう。
いきなり匂いの魔法が解けたみたいに、私は狼狽した。
「お前、またそんな事を言ってるのか」
私は振り向いた。声は機嫌のいいものではなかったけれど、人を安心させる響きを持っていたからだ。目が合うと、向こうの方が目を見開いた。
ミノクシはすたすた近寄ってくると、半開きだった戸をがらりと開けて、入り口で固まる私の頭をかき混ぜた。安心する。何だか悔しいくらい、気持ちが緩む。口の中で滞っていた言葉が、ほろほろと素直にこぼれた。
「聞いちゃ、いけないこと、ですか?」
「いけないことはない。だがそうやって落ち込むくらいなら訊くんじゃない」
落ち込む、という言葉に反応したのか、セミナさんが心配そうに顔を覗きこんでくれる。その優しさが、私の中の矛盾を大きくする。
「みんな、きらいなんですか」
「ああ、憎い憎い」
ミノクシはそう言ってため息をつくと、ぐつぐつ煮える大鍋に目をやって、くんと鼻を鳴らした。
「腹が減るのと同じだよ。全く、お前は本当に鬼じゃないんだな」
――鬼じゃない。だから同じ感覚になれない?
いつの間にか自分の頭に置かれた肘を持ち上げて、ぎゅうと掴んだ。ミノクシはぎょっと見下ろしてくる。
――こんなに近くにいるのに。
「ありがとう。セミナさんも、ごめんなさい。ごちそうさまでした」
腕を放して、セミナさんに頭を下げると、私はミノクシの横を通って廊下に出た。
人のことを知りたいと思った。
そのためにどうすればいいのか、分かっている。
ゆっくり足を進めながら、私は息を整える。
訊かなくてはいけないこともあるんだ。どの道あの人に会わなくては。
帳の前で声をかける。一瞬だけ返事がないことを期待したけれど、通りの良い声がそれを破った。
部屋の主は一際大きな明り取りの下で日を受けていた。色濃い影を畳に落とすその姿は、いつもよりはっきり目に焼きついた。
肩に届く黒い髪に、カナやミノクシよりも少し白い肌。それから、思わず見惚れる真っ赤な瞳は、たぶん、特異なものだと思う。
「館さま」
私がその呼称を口にすると、その人はゆっくり目を細めて、艶やかな睫毛が一層長く見える。そうして笑って、側へ招いてくれるその声が、私は泣くほど好きなのだ。
だけど、少し残念でもある。
もう、この呼び方でも、不機嫌そうにはしてくれないんだ。
私は会釈して、館さまから少し離れた畳に座った。萎えそうになる自分を奮い立たせようとすると、自然と背が伸びる。館さまはそんな私に少し驚いたみたいで、一つ瞬いた。そんなささいな仕草の一つ一つが、この人をきらきらさせる。多分夕刻の西日のせいだ。同じ色の眼が、一層凄みを増して見えて、私は目を逸らしたくなる。
だけど、訊かなくちゃ。
絶対、これは目を見ずに聞いていい話じゃない。
「あの、館さま」
衣擦れ。普段じゃ気付かないような床の軋みが近づいて、一瞬視界が暗くなる。首を風が撫でて、そのまま布地が降りてくる。肩から掛けてもらった上衣が、じわりと溶けるみたいに温もりをくれた。掻き寄せようとした上着の前に触れかけて、拳を握って耐えた。これから尋ねることと、この暖かさは相性がよくない。それどころか、しっかり包まれたら、たぶん決心が折れてしまう。
「館さま、訊きたいことがあります」
「なあに?」
そっと離れた身体は、それでも距離をおかずに、手を伸ばせばすぐ届く場所に腰を下ろした。
「もうすぐ、ひと、人と、戦うって」
本当ですかと問うまでもなく、私は言葉を飲み込んだ。館さまは驚いた様子もなく「クベライ殿?」と小さく応じる。私は何も言えなくなった。お見通しなんだ。
館さまはにこりと笑う。「心配してくれているのか」
本当なんだ。分かっていたけれど、胸の中に鉛を抱いたような気分になる。
「館さま」
「うん」
「館さまも、ミノクシも、カナも……カラも?」
差し込む西日が、あの夜の火の手になって、この里を飲み込むような、そんなイメージがガツンと頭の中の柔らかいところを殴りつけた。
嫌だ。
そんなのは嫌だ。
――嫌だけど、そんなことを言ったら、また私は泣いて、宥められて、この話は終わってしまう。
私は自分の身体を抱えたくなるのをこらえて、でも顔は上げられずに、ぽつりと言った。
「私に、できること、ありますか?」
館さまは何も言わなかった。無い、って、その沈黙が教えてくれた気がする。私は引きつりそうになる息を全部吐いて、口を開くために息を吸った。泣かないで、私。がまんしよう。
目が合った館さまがどんな顔をしているのか、私には分からない。ただにじむ視界の中でも一際赤く光るその双眸を捉えて、震える唇を開いた。
「――私、この里を出ます」
ここで役目がないなら。
私にできることを、私が探さなくちゃ。
ここに住む優しい鬼たちのために、私ができること、見つけるんだ。
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