12前触れ



 セミナさんは両手にバケツを提げていた。井戸へ行く途中だったらしい。それなら分かるぞ。集落の外れにある屋敷の、裏木戸の先だ。ニキとかくれんぼをしたとき、ミノクシがあそこで顔を洗うのを見たことがある。
「私、汲んできます!」
 バケツをその手から預かって、意気揚々、はしゃいで古ぼけた建物を探し、垣根沿いに歩いていく。その途切れの木戸を開けて草むらを歩く。
 ――ほとんど獣道だなあ。
 整備すれば、もうちょっと歩けるのに。

 ――草に隠れた枝やらにつまづかないよう、目を落として歩いていたから、寸前まで気付かなかった。

 草の根を踏んづける真っ黒いブーツが見えて、はっと顔を上げた。瞬間ぱきんと枝を踏みつけて、その小柄な影も振り向いた。
 黒いフードの中の、真っ青な瞳と視線が通う。もともと軽くしか引っかかっていなかったらしいフードが、はらりと肩まで下がった。

 その子は、銀色の髪をしていた。ボブカットっていうのかな、短い長さのそれがふんわりと外気に広がる。
 私は見惚れて声が出なかったけれど、その子も驚いていたらしい、わずかにその眼が見開いている。
 風が吹いて、手の中のバケツの重さを思い出す。私は我に返って、その女の子がもたれていた井戸を目で示した。
「あ、あの、井戸……使ってもいいかな」
 頷いて少女は場所を譲る。私はどぎまぎする胸を悟られないよう、慎重に井戸の蓋をずらして、その奥を覗き込んだ。
「におい」
 いきなり呟かれて、蓋を取り落としそうになる。慌てて支えながら声の主を向いた。女の子は斜めに首を傾けて、薄い唇を再度開いた。
「においが、しないの?」
 意味が分からん。
 ――えっと。
「におい?」
 こくんと頷く女の子。まさかと思うけど、私は臭くありませんか、って訊かれているの?
「な、何の臭いもしないけど?」
 私の答えに女の子はちょっと考えるような仕草をした後、不意に踵を返した。呼び止める間もない。
 彼女の姿が木陰に潜むと同時に、足を着く大地に揺れを感じて振り向いた。同時にどかんとぶつかる体に軽いめまいを感じつつ、その名前を呼ぶ。
「ニキ。いきなりだとびっくりするよ」
「かくれんぼ?」
 私の背中からひょっこり顔を出して、小さな獣は首を傾げた。鼻水をすんすん吸い上げているけれど、風邪だろうか。
「さっき女の子がいたの。銀色の髪のすごくきれいな女の子。ニキの友達?」
「しらない」
 ニキは反射的に応えてから、「あたらしくうまれたのかも」付け加える。
 そんなに小さい子じゃなかったんだけど。
 もう一度尋ねようとしたけれど、くしゃん、と顔に鼻水を飛ばされて、私はニキの額をぴしゃんと叩いた。
「早く帰ろっか。風邪引いてたらいけないし」
 ざぱりと水をくみ上げる私を、ニキがじいと見上げる。手足を細かく使う作業が珍しいのかもしれない。折り紙とか、見せたらはしゃいでくれそうだ。


 ニキと並んで戻ってみると、ハラハラした様子でセミナさんが待っていた。目が合うとほっとした表情になったけど、近づくと顔をしかめられた。
「セミナさん?」
 バケツに汲んだ水を片手で受け取ると、くん、と私の肩に鼻を寄せて、何かを嗅ぎ取るような動きをされた。はっと何かに気付いたみたいに、会釈も早々に、急ぎ足で先に行ってしまう。
「セミナさん、どうしたのかな」
 やっぱり何か、臭かったんだろうか。鼻を寄せられた肩口を嗅いでみるけれど、何のにおいもしない。
「はらへった」と訴えるニキと一緒に、私はセミナさんも歩いた館さまの屋敷への道を辿った。



 セミナさんのご飯は美味しい。
 私はおいしそうな匂いをかぎつけて、廊下をお座敷へと急いだ。
 ちらと顔だけで覗くと、膳を用意するセミナさんに何か言葉をかけていた館さまが、視線を寄こしてふわりと笑う。だんだん慣れてはきたものの、あんまり心臓に良いものじゃないです。会釈だけして、セミナさんの横に両膝を着いた。心得たように、彼女は盆を一つ渡してくれる。
 本当は台所も手伝いたいんだけど、足を踏み入れた瞬間ぎらりと光を放つアレに決意が砕けた。腰を抜かしていては仕事にならんな、と最近冷たいミノクシにばっさり切られて、私は配膳お手伝い係になったのだ。

 盆には、クキネという河原で採れる山菜のお吸い物が五つ乗っていた。その真ん中の大き目の皿に、見慣れない物が同じ数だけ盛ってある。
 ――なんだろう。
 セミナさんに耳を近付けると、そっとささやいてくれた。
 ――ササ、モチ?
 私の中のボキャブラリが、『笹餅』と文字をあてる。記憶にあるものとはかなり形が違うけれど、確かに緑色の葉で、丸く何かを包んでいる。膳に吸い物を一つずつ置きながら、くん、と立ち上る湯気をかいでみる。なるほど、品の良い、こうばしくてちょっと甘みのあるにおいがした。
 真ん中あたりにでんと大皿を置きつつ、お祝いごとでもあるのかなと呟くと、いつ近づいたのか、館さまが横から呟いた。
「客人を送るんだよ」
 客人。
「……クベライたち、帰るんですか?」
 頷く館さま。結局あれから一週間滞在したクベライたちも、明日の早朝に発つらしい。
 そんなこと、今の今まで、全然、誰も教えてくれなかったぞ。
「……寂しくなりますね」
「そうだね」
 頷きながら笑う館さまはそう寂しげに見えないのはなぜだ。ちょっぴり、じと目に見上げると、穏やかな双眸に受け止められた。
「またすぐ会える」
 ……なんだろう、変な鳥肌が背中を走る。不安が瞼の向こうでくすぶる感じ。館さまは笑う。絶対 この人、意地が悪いと思うんだ。
 私の考えを気にもしないみたいに、思いついて私の目尻に触れながら、館さまは部屋の入り口に目を向けた。数瞬遅れて視線を追いかける。
 ――あっ!
「可愛い我が子を置いて、どこへ行っていたんだ。他のものに取られるぞ」
 ――カラが。カラが、部屋に入ってくる。
 おずおずと足を運んでくるのが待ちきれなくて、こちらから近寄って首にしがみついた。あったかい。あったかい。不安は全部掻き消えたのに、じわりと目尻が熱くなった。カラ、と呟いて顔をこすり付けると、戸惑ったように鼻先が肩に触れてくる。
「……いらぬ心配だったようですよ」
 一緒に来ていたらしい、ミノクシの声。苦笑するのはクベライだ。私はがっちりと太い獣の首に腕を回したままで顔を上げた。
「帰っちゃうんですね」
「お世話になったね」
 カラの毛並みごと、髪を撫でられた。なんだろう、時々引っかかるみたいに、指が止まる。絡まっていたかなと手を伸ばすと、にっこり笑ってその上から手をはたかれた。
 ……これは……いじめ?
 ミノクシがぷっと笑う。いじめだ! 絶対いじめだ!
「み、ミノクシのあほー!」
 思わず本音が飛び出てしまう。ミノクシはニヤニヤ笑った。笑いながらこめかみを小突いてくる。地味に痛い。きっとこの鬼(言葉どおりに!)が、クベライに変な事を吹き込んだんだ。そうに違いない。
 う、と涙目になりながら、ミノクシの横で笑いを漏らすクベライを睨んだ。
「く、クベライ、いじわるです」
 言うなり、ぐりぐりとミノクシが指の関節を押し付けてきた。痛い。これは痛い。ぐっと呻くと、はあっと鼻先に息をかけられた。
「……ミノクシ、お酒くさい」
「お子さまめ。俺のよさがわからんとは」
「ミノクシさんって結構お酒弱いんですか?」
「俺は悪酔いするのが好きなんだ」
 何だ悪酔いしてる自覚はあるのか。
「……お前、全部顔に出ているからな」
「平気です、ばれて困るような事、考えてないもん」
 ミノクシはこちらをじっと見下ろした。目元が赤いわけでもなし、酔っているようには見えない。雰囲気酔いでもしたんだろうか。うむ、ウーロン茶で酔うタイプと見た!
 ミノクシは顔を至近距離まで詰めた後、ぐっと鼻を私の鼻に押し付けて、びっくりする間にぐしゃぐしゃと私の頭を混ぜた。ぽかんとする私の頭を両手でもみくしゃにすると、ずっと黙っていたカラの方をちらと眺めて、「ちゃんと教育しとけよ」と言い捨てる。カラは何も応えずに、巻きつけた私の腕にばふっと顎を乗せた。
 重い、けど、幸せ。
 ミノクシはどこか疲れたような顔で何か言う。それはたぶん、獣の間でだけ伝わる音だったんだろう。カラの耳が、ぴくんと動く。それまで笑っていたクベライに、何故か真面目な顔で凝視されてしまった。心なしか重みを増した顎をさすると、カラと目が合う。
 この獣は、優しい気持ちになれる目をしていると思う。つられて私の顔は勝手に緩んだ。
 あーあ、と、ミノクシが腰に手を当てて大げさにため息をつく。
「俺は一応、言う事は言ったからな」
 言いたい放題だった、という意味ではないような気がして、向けられた背中に戸惑う。ちらと振り向いたミノクシが罰の悪そうな顔で寄ってくると、手櫛で簡単に髪を直された。何か言う前に、ふいと膳の前に座ってしまう。思わずクベライに目をやると、ふうと息を吐かれた。
 館さまの声が掛かる。
「ハル、客人に酌を」
 酌? ああそっか、主賓が立ちっぱなしなのは、まずいのかもしれない。
「クベライ、こっちへどうぞ」
 ふわっと後ろ頭を毛並みが掠めて、カラが身を引く。私は館さまのひとつ隣の座にクベライを招いて、自分はちょこんと横に膝を着いた。お酌をするのって、実は結構好きだ。「まあまあ」「おっとっと」の関係は深い。これをすると、不思議な連帯感が生まれる感じがするのだ。
 まあ、やってくれたのは正直クベライだけなんだけど。
「まあまあまあ」
「……おっと、と」
 本当に戸惑っているだけな気もするけど。たぶん気のせいだ。
 なみなみ注がれた盃を口許に運ぶ動作も慣れたもの。一口味わって、くすりと笑った。
「君は面白いね」
「素性がですか?」
 自分でも、記憶喪失と言うのは他人事なら興味深いと思う。
 首を傾げて見上げる私に、クベライは何も言わず盃に口をつけた。
 ミノクシと先にあおったお酒のせいで、もう大分酔っているのかもしれない。
 二三杯同じように啜った後、クベライはふっと赤い目で縁の方を見た。
「……涼みに、行きますか?」
 訊いたけれど、私のほうを見ないままにこりと笑う。ああやっぱり、酔ってるみたい。
 館さまに一言断って、私はクベライの手を縁側へ導いた。

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