11日向



 部屋でぐずぐずと鼻を鳴らしているうち眠っていたらしい。誰かが――たぶんあの女性がかけてくれたんだろう毛布から出ると、昨夜からずっと寝転がっていた蒲団と一緒に畳んで、部屋の隅に積んでおいた。

 縁側から見上げても、真上にあるせいで太陽は見当たらなかった。時刻としてはもうお昼らしい。獣たちは自分で勝手に食べるから、あんまり昼食を皆で食べる事はないとミノクシが言っていた。
 ――ミノクシ。
 昨日の言動を思い出して、渋い顔になってしまう。
 だけど、本当なんだろうか。
 獣たちが、自分の事を醜いと思っているなんて。

 何かに埋もれたくなって、目の前の丈の長い草に飛び込んだ。と言っても靴を履いてからだ。カナが履いているようなサンダルが、最近ずっと縁の下に用意してあるのだ。
 誰だかわからないけど、感謝です。

 もさもさ草を掻き分けているうち、だんだんにその丈が長くなった。全然前が見えないぞ。真っ直ぐ進んでいる自信もないけど、この先には何があるんだっけ。
 いよいよ心細くなってきた時、一際高い草を両手で掻き分けると、青い空が広がっていた。恐る恐る見下ろす足元は断崖だ。さっさと帰ろうと踵を返しかけて、私は茶色い固まりが崖下にころころ転がっているのを見つけた。
 獣たちだ。
 一瞬だけ悩むと、ひやひやしながらも、私はそこに腰を下ろした。

 獣たちは眩しい陽を受けながら、草の上に寝そべっている。日向ぼっこかな。
 そのすぐ側の木陰に、何か赤っぽいものを見つけて私は目を凝らす。すぐその赤いものがぴくりと動いた。
 獣?
 見つめていても、身じろぎ一つしたその後は、岩のように固まって動かない。他の獣たちは明るいところでお腹丸出して寝転がっているのに、どうしたんだろう。
 私は唾を飲んで、座った時と同じようにそろそろと立ち上がる。崖の縁が見える程度に草むらに飲まれながら、道なき道伝いに歩き出した。

 五分が十分か、そのくらい歩くと慣れてくる。崖の縁に屈むと、ちょうど獣たちを目下に見下ろすくらいだった。
 それで分かる。
 あの木陰の獣は、ビイナさんだ。

 時々瞬きするから、眠っているわけではないんだろう。じっと他の獣を見張ってでもいるように、気配を小さくしてうずくまっている。
 不意に日向の獣が暗がりに目を向けて、確かにビイナさんを捉えるけれど、すぐ何もなかったかのようにまたもとの姿勢に戻って、他の獣に頭突きなんかしている。あれが愛情表現だというのは、カラが他の獣によくされているので知っている。
 ビイナさんは動かない。
 少しして、さっきと丸きり同じの動きを獣たちが繰り返す。ビイナさんがそこにいるのを確認すると、また思い思いに遊び始めた。
 ――ビイナさんを警戒している?

 鬼たちにも、集落ごとの縄張り意識のようなものがあるのかな。
 寂しいな。

 気付くと腰を上げていた。
 ――どこか、降りられるところはないだろうか。
 きょろきょろと見渡して、不意に視界の端に入ってくる、黒っぽい頭。向こうは私が気付くより先に、こちらの姿を捉えていた。
 その鋭い眼――というか、ガラの悪い目つきに、私は身が竦む。
 ――カナ。
 後ろ側に一歩、二歩と下がる。三歩目に踏み出した足は、想像していた地面を踏まなかった。

 私はものすごく強い力に引っぱられていた。目の前の岩肌のかたちを捉える余裕もなく、景色が傾く。頭から落ちるのだけは避けたくて、空中で身体を捻ったけれど、ほとんど真っ白な頭だから、それが功を奏したかどうか判断がつかなかった。
 わあ、ここって断崖だったなそういえば。なんていってる場合じゃない。

 獣たちがざわつく気配があったけど、距離があるから間に合わないだろう。
 ああ即死とかはないだろうけど、なるべく痛くありませんように! 尖った岩とか枝とか、真下にありませんように!

 目を閉じる瞬間、視界が赤茶色に染まった。大地への衝突を予期して身を竦めたのに、お尻には何も当たらなかった。代わりに、首や肩に服が引っかかって苦しい。落下が止まったのは分かるから、目を開ける。

 すぐ側に地面があった。こぶし大の石がごろごろしている。私ははじめ、崖の枝か何かに引っかかったのかと思ったけれど、首に当たる荒い息づかいに、それが獣である事を知った。獣は宙ぶらりんになった私をそのまま運ぶと、歩いて日向と日陰の境の柔らかい土の上に置いた。
 私ははじめてその獣の顔を知った。
「ビイナさん」
 彼女は名を呼ばれたことに驚いたのか、少しだけ髭を震わせた。お礼を言おうとしたのに、私の後ろを一瞥して、すぐ踵を返してしまう。その直後背中に走る衝撃に、私は座り込んだまま悶絶した。
「ハル!」
 ああでも痛いけど嬉しい。痛がりながらにやにやする私を、ぶつかってきた子供の獣、ニキはまじまじと見て、すぐ不安げに鼻を押し付けてきた。
「へんなとこ、ぶつけたのか?」
 失礼な!


 私は自分の体が動く事を確かめて、ビイナさんの背中を追いかける。
「あの、ビイナさん!」
 赤茶の獣は元のように木陰にしゃがみ込んでしまっていた。うっそうと茂っているわけではないので、木漏れ日はあるけれど、日光浴には足りないと思う。
 ビイナさんは私の声にふわりと瞼を開けた。ぴよぴよと白くて長い睫毛が、木間を流れる風に揺れている。
 私は息を整えるのももどかしく頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
 ビイナさんの睫毛が揺れる。意識した事じゃないんだろうけど、その一度の瞬きから、戸惑いのようなものを感じた。
 鬼の反応って分からない。私は狼狽して、だけどここで泣くのは違うと思ったから、ぐっと情けない気持ちを飲み込んだ。沈黙すると、木の葉の擦れ合う音がやけに大きく聞こえる。ビイナさんは耳を澄ませるみたいに瞳を閉じた。長い瞬きみたいな仕草だ。

 ビイナさんは、なんというか、落ちついている。
 獣は誰も独特だけど、この外からやってきた獣も、自分だけの時間を生きているような雰囲気があるなあと、私は鼻を啜った。
 この獣にすれば、私が思うように、寂しいとは感じないのかもしれない。


 「ここにいてもいいですか」と尋ねるのは却って失礼な気がして、私は黙ってその場にしゃがんだ。
 お尻を着けると、冷たすぎない温度の地べたに触れる。私は膝を抱えて、正面のビイナさんの鼻先を見つめた。たまに乾いた事を思い出すように、ぺろりと赤い舌で湿らせている。
 何を考えているんだろう。
「……ビイナさん、眠いですか」
 反応はない。
「お腹はすきませんか」
 ぴくりとも動かない耳を見つめたままで、私は意図して口を開けた。
「人のことが嫌いですか」
 ビイナさんはふっと目を開けて、鼻の先の私を認めた。そこに表情は読み取れないけれど、だけど何か思索はあるんだろう。よく分からない悔しさが込み上げて、私はわざと明るく言った。
「……私は、鬼達のことをきれいだと思います。ビイナさんはとっても美人です」
 驚いた顔をされたら嫌だったから、そのまま立って、ビイナさんを見ないように日向へ向かって歩いた。ほとんど小走りになった。


 木陰への入り口でちょこんと座っているニキを見つけて、たまらずぶつかった。
「うおっ」
 うめき声を出しながら、獣の子供はなんだか嬉しそうだった。ぎゅうと腕を回すと、柔らかい毛皮に顔を埋める。
「ニキは可愛いよ」
「ありがと」
 他に言葉が見つからず返しただけかもしれないが、これ以上ないくらいに嬉しさがこみ上げた。私がもふもふすると、ニキはくすぐったそうに身をよじりながら言った。
「やっぱりあたま、こわれたのか?」
 まだ言うか。それに何だか、表現が怖くなってるよ。
 私が返事に一拍置く間に、ニキは身体を緊張させた。何かと思って顔を上げると、じいと木陰の奥に目をやっている。
「たぞくのやつらとは、あまりまじわらないんだぞ」
「仲良くしたら、いけないの?」
 ニキは困った顔をした。人で言うなら、きっと眉尻が下がっている。
「いけないって、いわれたことはない」


 困りきってしまったニキを連れて里へ帰った。帰途は大人の獣が乗せてくれた。ぴょんぴょんと身軽に岩肌を駆ける背の上で、無性にカラが懐かしくなった。
 今頃、どうしているのかな。
 
 里の広場で、見知った姿を見つけて私は獣の背を降りた。彼女は私の顔を見ると、ほっと表情を緩めて小走りに近づいてくる。
 心配させた事は分かるのに、目の前にすると変な汗をかいてしまう。
 こんな気持ちで一緒の場所で生活するのは無理だし、嫌だ。
「あの、私、ハルっていう名前です」
 その唇が「はる」と動く。
 嬉しさに勢い「あなたは?」と訊くと、困った顔をされた。
 そうだ、口が利けないんだ。
 困り果てる私に対し、意を決したように、彼女は手招いて、その口を私の耳に寄せた。

 ――セミナ。
 ゆっくりと、繰り返される息づかい。

「セミナ、さん?」
 確かめるために呼ぶと、彼女――セミナさんの表情がほころぶ。
 私はほっとした。名前を呼ばれて嬉しいのは、絶対に自然なことなのだ。

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