28帰る



「そういえば、おいしいお店があるんです。いっしょに食べませんか?」

 イーシャを例の甘味屋に誘って寄った帰り道、風に乗る悲鳴を聞いた。
 その声が止む前から、足が駆け出す。
 いつか鬼の仔の落下の軌跡を追った時みたいに、夢中で。イーシャの制止を背中に聞くけれど、足は止めない。だって、私が一番早く間に合うって分かったから。

 子どもの背丈ほどありそうな車輪の行路から掠め取るみたいにして抱え込んだ目当ての体ごと、勢いのまま尻餅をついた。立ち上る砂塵が大人しくなるまで、子どもの顔を胸に押し付けておく。ドキドキと、全身が心臓になったみたいに、小さな体は鼓動を刻む。その背中をなだめながら、砂埃の中にイーシャを見つけた。顔を蒼くして、動かない。

 ――後で謝ろう。

 腕の中で体が身じろぎした。拘束を解いて、自分の足で立たせてやるけれど、子供は硬直したまま反応しない。
「ケガはない?」
 言いながら、道に転がったサンダルを拾って渡してやる。おとなしく受け取ったと思ったら、駆け寄ってきた親らしき女性の顔を見るなり火がついたように泣き出した。

 親に子どもを引き渡して、手を振る私に、雑踏の中から「どうして?」とか細い声が届く。聞きたがえることなく発信源の少女を捉え、首を傾げる私の手を、彼女はつかんだ。非力そうな見目なのに、その指には痛いくらいに力がこもっていた。
「あの、イーシャ?」
「ハルはどうして自分を大事にできないの?」
 とっさに答えが返せない。大事にしていないつもりはないのだ。
 イーシャの手が顔に伸びてきて、ぎょっとする。ぬるりとした感触。頬を切ったらしい。
「たいしたことない。けど、心配かけてごめんなさい」
 茶化して言うと、頬に痛みが走った。私が顔をしかめると、イーシャは手を離してその指先を上着の裾でぬぐう。息をついて再度私と目を合わせた。切迫した視線に首がすくむ。
「どうしたの?」
「――どうもしない、どうかしてるのは君だよ。あんなふうに飛び出して、怪我をするなんて」
「……だけど、そうしなきゃさっきの子が怪我を」
「それとこれとは別」
 なんで? と聞き返そうとした声は、イーシャの嗚咽で掻き消えた。突然肩を振るわせたと思ったら、彼女は震える半開きの唇からうえぇ、とたまらなく不味い物を食べたときみたいな声を出した。ぼたた、と紺色の上着により深い色の染みが広がって初めて、私は目の前の人物が泣き始めたのに気づく。
「え、あれ、イーシャ? 大丈夫? ど、どうしたの?」
 応じる声はなく、ただ落涙中とは思えぬ力強さで伸ばした手をつかまれる。顔の前に引き寄せられて、一瞬噛まれるかと警戒したけれど、かえって優しく彼女の額に触れさせられた。
 そのままじっとイーシャのおでこに手のひらをあてていた。声をかけてもイーシャは何も言わず、ぐずぐず鼻を鳴らしていたけれど、どのくらい経ったのか、腫れたまぶたがいきなり持ち上がった。
「――私が守ると決めたんだよ。命の宿る人形である君たちの存在は、私が責任を預かってるんだ。……蛇人形は、むやみにその体を傷つけないで。君には人を守る義務はないんだ」
 やっぱり心配してくれたんだ。
「ありがとう、イーシャ。でも、ユクさんも言ってました。守れる力を持っているなら、使いたいって。私もそう思います」
 イーシャは口を緩めて薄く笑んだ。
「……蛇はそういうふうにできているの」
 独語とも問いとも取れない言葉に、それでも私は答えたかった。
「少なくとも、私の中では自分の意思ですよ」
 しばらくしてイーシャは言った。
「リトベッテ」
 イーシャがつぶやく。ここにいない人の名前を虚空に浮かべながら、イーシャは私の手を放さない。
「憎いよ。リトベッテ。リトベッテ、最悪、大嫌い」
 彼女の手を通して憎悪が伝わる。
 リリトレラさんの蔑称を、怨嗟を込めて繰り返すイーシャが、暗い澱みの中であえぐように感じた。私は言葉のかけ方が分からなくて、ただ彼女の名前を声にした。イーシャの暗い色の瞳が上向いて、私を捉えた。
「君を奪って君の心まで手の届かない場所に置き去りにしたんだ。他の奴の手をとって他人の身を気にかけて、そんな傷つき方をさせるつもりじゃなかった。」
 あの人を憎いといいながら、その目に宿るのは自責の想いだった。眉尻を下げて、歯を食いしばって、耐え難い責め苦に耐える顔。
「イーシャ、辛いんですか」
「辛い?」
 虚をつかれたように瞠目して、彼女はゆるゆるとうつむいた。目を伏せる気配。
「――辛い。辛いと言ったら、私が苦しいと言ったら、君は――守られてくれる?」
 イーシャの『守る』は、彼女に従って、管理されたり、庇護されたりといった意味と同義だ。だから私は首を横に振る。
 私の答えに、イーシャは閉じた目をその手で覆い隠した。
「意地悪だね。守らせてよ。傷つかないでいて。私の側で……守るのに」

 ――イーシャの蛇は、自分の安全を一番にしなくちゃいけないんだ。
 今日も私を心配して、ついてきた。

 開放された手で彼女の頭をいつかのように撫でながら、イーシャの蛇がいつまでも彼女の味方であってほしいと私は祈った。


 イーシャはその日の夜から熱を出した。夜が明けて、果物を食べたいというイーシャの言を受けて、トリトさんは壁に掛かった乗馬用の風除け帽を手に取った。
「俺が行くよ。トリトは付いててあげて」
 トリトさんは少しのためらいをその目に浮かべながらも、目を伏せて頷いた。すぐに踵を返してイーシャのもとへ戻る後姿を見送ってから、私はイーシャの部屋から一番遠い勝手口を使って厩舎へ向かう。

 厩舎から、たずなを握って現れた影に、私は一緒に連れて行ってくれるよう頼んだ。
「ハルは一緒にいてあげた方が良いんじゃない?」
「いえ。私も行かせてください」
 ユクさんはしばらく私の目を見つめてから、溜め息をついて馬上に上る。
「……じっとしてる方が、辛い時もあるよな」
 差し出された手にお礼を言って、鐙伝いに上る。

 ――何かしたいと思ったわけじゃない。

 病床のイーシャの弱弱しさを前にするのも、冷静さを失うくらいに彼女を気遣うトリトさんの側にいるのも、なんだか重たくて、息苦しかった。ヘイミイは協会の要請に駆り出されて不在だから、ユクさんがいなくなると――。
「お願いします」
「わかった。――行こう」
 頭を下げる私に、ユクさんは頷いて手を差し出した。


 街路を馬上に揺られながら、体の底から湧き上がる感慨を隠せない。

 ――会いたいなあ。

 後ろのユクさんに気取られないように、私は柔らかい毛並みを思い出して鼻をすする。


 馬を下りて、たずなを引くユクさんの隣を歩く。
 真っ赤なりんごを人波の端に捉えて、ユクさんに告げようとした時、不意に、躍動が肌に触れた。

 ――あっ。

 大地を通して、足先から頭頂まで駆け上がる痺れ。

 『それ』に気づいたのは、ユクさんよりも私のほうが早かった。一瞬で抑えが利かなくなる足で跳ねるように振り返って、彼に「ごめんなさい」と叫んだ。私に問おうとして、ユクさんもそれに気づいたのが、背中の気配で分かる。昼近い通りの喧騒の中に、私の体は飛び込んでいた。

 まっすぐに、人の集まる気配と恐怖と悲鳴と興奮が綯い交ぜになった方へ。だけど、私の心にあるのはその中心で脈打つひとつの鼓動だけだった。

 人の波が押し寄せるのがわずらわしい。だけど、それは自分が真ん中に近づいていく証拠でもあった。

 ――ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!

 声もなく詫びる心と裏腹に、体の拍動は喜びに打ち震えた。
 いつか彼らが言っていた、『狩り』の興奮とはこういうものだったのだろうか。

 それなら、もしこれがそうなら、もう、どうしようもないよ。

 前脚が波を割った。槍を携えた『人』が、槍の先を『獲物』に向けたままで、私に誰何の声をあげる。
 だけど、――ああ、それどころじゃない!

 私はまた飛び込んだ。虚をつかれた彼らの矛先が私の腕を脚を浅くなぶるけれど、何の障害にもならない。私は彼らの獲物であるところの私の『真ん中』に向かって、頭から突進した。

 衝撃は、生臭い血と泥と、それに取り付かれた硬い毛並みだった。一瞬で目の前に迫る『それ』の牙に向かって、私は笑って懐かしい名前を呼んだ。

「――ニキ」

 牙が、私の肩の横をすり抜ける。前のめりになった体躯が、ずいぶん長くなった鼻先と、変わらないくりくりしたつぶらな瞳をこちらに向けて、確かに、確かに「はる」とつぶやいた。
 たまらなくて、首にしがみつく。

 大好き。大好き。大好き。

 私は、もう、ずっと。



 獣は温かく、彼の心臓は自分の鼓動と共鳴する。あんなに小さかったニキは、今や彼の兄貴分ほどの体躯を手に入れていた。
 血だまりの中にその体を置きながら、ニキの命には翳りの一筋もみえなかった。それが嬉しい。その代わりに、今まさに失われていく人の生があることは確かなのに、横たわる『人』を認識しながらも、私の心はニキに対して曇らなかった。

「ニキ、大丈夫? 怪我はない?」
 いまだ放心した様子のニキを覗き込む。眼が瞬いて、わあっと口がうなった。その額がごんっと私の肩にぶつかり、尻餅をつく。汚泥に手をついて立ち上がろうとするけれど、今度はお腹にごんごんと頭突きしてくる。
 ずいぶん大きくなったけど、甘えてくれるのは変わらない。耳の根っこを掻いてやると、視界の両端でばたばたと尻尾が跳ねた。
「ハル! ハルッ! ハルだ! ほんものだ!」
「久しぶりだね、ニキ、えへへ、会いたかったなあ」
 声を聞けば聞くほど、自分の心の穴が幸福に満ちていく。鋭利な刃先が座り込む自分の横に飛んできても、私はニキの体を離さないままだった。もう、とニキの苛立つ鼻息とともに、「乗って」と背中を示される。私が飛び乗ると同時に、ニキは地を蹴った。
 私の『蛇』の耳が、親しい誰かの声を拾ったけれど、そちらへ視線を送ることはしなかった。

 怯えと怒りと憎しみと、向けられる幾多の眼が抱くものが、それならそれでいい。

 受け入れよう。私は選んだよ。

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