27その望み 



 イーシャの家に戻ってから、一週間。散々だった。家事手伝いの失敗で、一日一度は傷を作る。ぼんやりとしてはいけないと思うのに、目の前のことに集中できなかった。トリトさんは早々に、私に包丁を握らせるのを諦めた。ヘイミイさんすら、時折「大丈夫?」と声をかけてくる。そんななのに、イーシャの目は優しい。

 八日目の今日、見かねてユクさんが私を連れ出した。そうして、いつかの公園へ私を残し、飲み物を買いにいく。この前と同じ。リスキーな行為だけに、彼の気遣いを強く感じた。
 私はベンチにもたれる。
 青い色が視界の端を掠める。
 白日夢、とその存在を片付けて目を閉じた。

「人の心を得るのは簡単ではないよ。いや、率直に言うと無理だな」

 現れた男は、そう語りながら隣に腰を落ち着けた。去ろうと思ったが、腰を上げるのが今はすごく億劫だ。私の諦めに、男は訳知り顔で頷く。
「そうそう、行動を起こすための理由が増えるよねえ。希望が絶たれるというのは、これまでの奮起を全部覆して、大いなる虚脱をもたらすものだ」
「なんか、用ですか」
 呼吸のついでにこぼれた言葉に、男はにっこりと笑う。
「僕の教会に入らないか?」
 息を吸って吐いた。こちらを眺める青色の双眸が愉快そうに和むのを、目の端に感じる。
「すごく幸せにはなれないけど、幸せの妥協点をみつけることはできる。世の中への期待を、ごく合理的なものだけに限れるよ。情けない気持ち、何かを恨むことなんかとは縁を切れる」
 私は目を細めた。男の戯言がまぶしかった。
「あなたは人なんでしょう」
「それが?」
 面白がるような声をだして覗き込んでくる。その透き通る青い瞳に、私は何も期待しなかった。
「人なら、鬼が憎いはずです。恨んでるはずです」
「ああ、君のその質問、僕は僕の神に愛を捧げずにはいられないね」
 くすくす笑う。胸に手を当て空を仰ぐしぐさに、私ははじめていらだった。男は天に向けるのと同じ瞳をそのまま向けて言った。
「僕は鬼を憎んではいないよ」
 
 目を見張る。次の瞬間、少しでも期待しかけたことを後悔した。男が私の顔を見て、大口を開けて笑ったからだ。
「さ、最っ低な嘘ですね」
「嘘じゃない。本当だよ。笑ったのは、君の期待を砕くためだ」
 それこそ底意地の悪い思考だと思った。にらみつける私など屁とも思っていない様子で男は口を開いた。
「僕は鬼が憎くはないが、人に対しての特別の好意もないよ」
 意味がわからない。私の顔を眺めて、男はにこにこと喋った。
「気が狂ってるんだ。情緒の欠如とあらわす奴もいるけど、それは君が見て判断してくれ。僕としては、僕の愛の表現の形に従うほかにはないからね。つまり、君の望むような愛はもてないってわけなんだ」
 すごく失礼なことを言われたような気がする。けれど、言わんとすることはなんとなく伝わった。
「あなたは、鬼と仲良くはしたくないってことですか」
「僕自身はなんとも思わないし、君にとるような態度を持てといわれても嫌悪感はないけどね」
 私は黙った。彼が良くても、鬼からすればだめなんだろう。鬼にすれば、人の真意なんて人であるだけで無意味だから。
 ――だけど。
「全部の人があなたみたいなら、いいですね」
 そうなら、人は鬼を避けて生きることを選べるはずだ。逆でもいい。どちらもそうなら、争いなんて起こらないのに。
 率直に告げた言葉に、男は目をわずかに開けた。
「君は冷静だ。それでいて主観的にそんな評価を下してるね」
「そうですか」
 男はふうん、と私を眺め、肩を落とした。
「だけど、がっかりだな。……君は世界で一番僕が好きってわけではないらしい」
 ――何をわかりきったことを言うのだろう。
 思わず凝視すると、裏のない表情で首を傾げられた。
「僕という、今の君にすると一番理想の人格がここにいるんだよ? なのに、君は愛せないんだ」
 私は混乱する。この人が理想? 確かに、鬼も人も憎まず、平常でいられることを、私は望んだけれど。
「あなたが、鬼か人かを好きなら――」
 きっと好きになる。
「――だけどもう、それは僕じゃない」
「……わかってます」
「ほんとに?」
「生まれつきのことなら、しかたないです」
「そうなの?」
 覗き込んでくる瞳がいやに澄んでいて、腹が立った。思いつくままにまくし立てる。

「だって、そういう風にできているんだから、しかたがないです。他のことならまだしも、感情を訓練しろって言うのも押し付けがましいじゃないですか。しかも、育った環境の違う他人が、口を出せることじゃ、ない……――」

 ――あれ?

 「そうなんだ」と笑いながら相槌を打つ男性を目の前に、私の思考は彼を忘れて内にもぐる。
 自分の言葉が頭の中をめぐった。
 ――他人へ放ったはずのそれは、そのまま私の行いに、返ってくる。

「私は、」

 私のこの、『絶望』は。
 鬼を人を憎むという言葉を聞くたび、胸に溜め込んでいた気持ちは。

「僕は君において、僕の人格を獲得できたみたいだね」
「――わたし」

 『変えられないこと』を変えられないからって、あの人たちに責なんてないのに。

 理解した瞬間、体のうちから恐怖が襲った。

「僕は勧誘に失敗しちゃったみたいだね」
 嬉しそうに、言う。
「ねえ、僕はマクベティラ。僕は気が狂ってるから、君の望みにかすりもしないけど、絶望からも無縁だよ。期待させないことに関しては、期待していい。また会おうよ」



「ハル?」

 声に、身がすくんだ。

 怯えの色を嗅ぎ取ったらしい、ユクさんは距離を置いたまま、再度私を呼んだ。
「ハル、何かあったのか?」
 私は何のごまかしにも気を回せず、こくりと頷いた。
「じ、じぶんの、ダメなのが、わかったんです」
 ユクさんはゆっくり近づくと、目の前に膝を着いて飲み物をくれた。お礼を言おうとして、唇が震えた。ユクさんは、瞳を和ませた。
「俺は、無理に聞く気はないけど?」
「聞いて、ください」
「じゃあ、一口飲んで、その感想を聞かせてよ。それから。ね」
 頷いて、私は彼の言うとおりに飲み物を口に含んだ。甘くて、すっとしみこむ。私は自分の喉の渇きにいまさら気づいた。


 私はユクさんに、自分の失敗を伝えた。
 私は、鬼と人とに、お互いを尊重してほしかったけれど、それはどっちもの人格を否定することと同じだとわかったのだと。
 どうして? と理由を訊くことで、非難されたように感じることだってあるのに、ずけずけと踏み込んでいた。

 ユクさんは感想を言わずに、私の短い告白を聞いていたけれど、私が溜めていた息を吐ききったと知ると、隣で彼の飲み物を口にした。
「ハル。君の結論はすごく率直で、俺は好きだな」
「え?」
「これからのことも、言えたら聞かせて。これは催促じゃないからね」
 あ、催促といえば、お腹がすかないか。
 そんな風に言って、目を見張る私の頭を撫でる。
「デザートのうまい店をヘイミイに聞いてるんだ。男一人じゃ行きづらくてさ。付き合ってくれよ」

 ユクさんに連れられて入ったお店は、木色の煉瓦が積み重なった塀の中に立っていた。小さな花が壁にあしらってある、そこはなるほど、男の人が一人で入るのにはためらってしまうかもしれない。
 ユクさんに勧められて注文したその品は、見た目にはパフェみたいだった。フルーツとともに、白玉みたいな見た目の団子が添えられている。何の気なしに口に運んで驚いた。噛むと甘くてもちもちしているが、歯切れはいい触感。バニラみたいな匂いがする。ふわふわのクリームはフルーツソースが混ぜてあって、甘酸っぱい。お団子の甘さとあわさって、口の中が幸せになる。
「どうだ?」
 恐る恐る、という様子で、自分はコーヒーだけ頼んだユクさんが覗き込んでくる。
 おいしい、と頷いて、涙が落ちた。
 ユクさん、覚えていてくれたんだ。私が好きって言ったの。

 一口食べて泣き出した私のために、ユクさんはお持ち帰りを提案した。お店を出てすぐ、私はわあわあ喚きながら、ユクさんにしがみついて、溢れ出る衝動を抑えもせずにずっと泣いた。


「目が赤い」
 玄関の前で出会ったヘイミイさんは、まじまじと私を観察する。一緒にいたトリトさんが、ヘイミイさんの頭をぽんとはたいた。
「すっきりした顔になっていますよ」
「でも、顔は洗ったほうがいいと思うわ」
「ヘイミイ」
 ヘイミイさんはたしなめるトリトさんの手を逃れて、今度は私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「おかえりなさい、ハル。やっと帰ってきたのね」

 ヘイミイさんが急にお姉さんみたいになって、私の洗面を手伝ってくれたあと、今日はずっと自室にこもっていたイーシャが顔を出した。トリトさんから受け取った目覚ましのコップを受け取って、私を見る。イーシャは目を閉じて、もう一度私を捉えた。
「泣いたの?」
「泣きました」
 応じる私の声は枯れている。喋ると喉がなお荒れそうだった。イーシャは一口、目を逸らさないまま飲み物を口にすると、告げた。
「明日から、私がつくから」

 言葉の意味は、翌日分かった。イーシャは私の外出についてくるようになったのだ。護衛に一人蛇を連れているから、今までの外出時に彼女が一人加わった状態である。
 理由を尋ねると、「不安なの」と一言、全く不安そうには見えない顔で応じる。
 ――いったい、何が不安なんだろう。


私の疑問は、すぐに氷解した。

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