17匂いと温度



 預かった鍵は、確かにリオールトさんの隣の部屋の鍵穴にフィットした。回すとカチャリと小さな音がする。思わずドキドキしながら見上げたのに、リオールトさんはさっさと自分の部屋の鍵を開けて中に入ろうとしていた。
 目が合うと、「何をもたついてるんだ」という顔をされる。大人しく部屋のノブを回した。押し開いた室内はなんだか落ち着く狭さだ。木組みのベッドに近寄って布団をめくると、しわのない真っ白なシーツがのぞいて嬉しくなった。入り口から向かいの壁に丸い窓が一つついていて、そこまで行くために三段だけの階段がついている。付属の手すりは丸みを帯びてつやつやしていた。今までここに宿泊した、たくさんの人が撫でたのだ。
 恭しく階段を昇り、窓の桟にしがみついて、私は先人に習うつもりで窓を覗き込む。
 たくさんの色とりどりの屋根が見えた。ぐねぐね曲がった通りの脇には点々と街灯が伸びている。ここより高い位置の窓もあるけれど、その一本の通りを行く馬車を目で追うじゃまにはならなかった。馬車は石畳を蹴飛ばしながら、蛇行した道を遠くなっていく。見えなくなるまで注視していた。
 不思議だ。
 さっきまでああやって街の中を走っていたなんて。
 爪先立ちの足が痺れる。
 私、わくわくしているみたい。

 笑い声が聞こえて振り向いた。リオールトさんだ。開きっぱなしのドアの側で首を傾いでいる。

「そんなに珍しいのか」
「はい」
 自分でもびっくりするほどすばやく頷いた。リオールトさんも目を丸くして、また笑みの形を作る。
「本当に覚えていないんだな。何でも珍しいのか」
「そうみたいです」
「記憶がないというのは、生まれ直すようなものなのかもしれないな」
「生まれ直す?」
「自分の過去が白紙になるような……親も子もなく」
 ――親も子もなく。
 言った後で、リオールトさんは表情をしかめて「すまない」と加えた。
 私は納得する。
 ――親に会っても、私はその人が自分の『お母さん』『お父さん』だと分からないかもしれないんだ。
 だけど、
「大丈夫、ですよ」
「そうだな、きっと思い出す」
 そうじゃない。
 そうじゃないけど、焦って同意を示すリオールトさんの表情がまた曇るのを見たくなくて、黙って頷いた。

 街の匂いも風景も、何一つ私の気持ちに懐かしさを呼び起こさない。
 全部が新鮮で、私は遠い国にやってきた旅行者みたいに、ここには馴染まない。
 
 「お父さん」と「お母さん」はこんなに気持ちを揺らすのに、触れるもの全てが嘘みたいに思い出に響かない。

 ここにはいないから、会わないから、大丈夫です。


 「明日はイーシャのところへ行こう」と言ってくれて安心した。迷子センターへ行っても、申し訳なくなる。
 今私は夕ご飯のために、リオールトさんと一緒にカウンター席に座っている。椅子に腰掛けると、頭の位置が近くなる。……私、足が短いのかな。
 自分の脚を見下ろしてため息をついていると、目の前にグラスが差し出される。
 なみなみ揺れる白い液体。
「ミルク?」
 嫌味ですか。
 カウンター越しに男の人と目が合った。三十代くらいだから、『マスター』としてはまだ若い。その人は妙に人好きのする笑顔で目を合わせてくる。
「これはサービスだよ」
「あ、ありがとうございます……」
「ちゃんとお礼が言えるなんて偉いねえ」
 私は会釈しながら、斜めにリオールトさんを見上げた。赤い飲み物で満たされたグラスを片手に、微妙な視線が返ってくる。
「十歳かそこらならまだ子どもだ」
「じゅっ、さい?」
「……歳は覚えているのか?」
「覚えてませんが違うのは分かります!」
「覚えていないのに分かるのか」
 ぐぬぬと私はグラスを持ってミルクをあおった。甘い口当たりに思わず頬が緩む。なんだろう、ちょっととろみも付いている。
 もう一口、今度は味わって口に含んだところで、リオールトさんと目が合った。わ、笑わないで下さい。
「うまいか?」
「おいしい、です」
 満足そうに口許を緩めて、運ばれた料理に手を付け始めるリオールトさん。あの赤い飲み物は、アルコール入りだったに違いない。違いない!


 潜り込んだ布団は私の熱を吸い取って、そのうち暖かく還元してくれる。ふかふかのそれが鼻先にあたった。よく干した布団の匂いだと分かる。セミナさんを手伝って、一緒に取り込んだ時嗅いだのと同じだ。

 今朝まで吸い込んだ森の匂いは今遠い。
 どうなるのかな。どうしていったらいいだろう。
 明日会うイーシャというあの黒い髪の女の子は、私のことを知っているだろうか。

 隣の部屋で同じように眠っているだろうリオールトさんのことを考える。口の緩くなった夕餉の席で、彼女が義理の妹だと聞いた。お兄さんが、イーシャさんのお姉さんと結婚して、一緒に暮らしているんだけど、お姉さんは妹も引き取って暮らしたいらしい。頼まれたリオールトさんは、月に一度くらい機会を設けて、この街に交渉に来る。
 あの子は、お姉さんと暮らすのがいやなのかな。


 翌日、鍵を返そうとしたのに、リオールトさんは受け取らなかった。自分の分と同じ期間、私の部屋を借りているとのことだった。
 それは私にも嬉しい言い分だったから、食い下がる言葉を飲み込んだ。親切心に寄りかかる自分の不甲斐なさは、今の幸福感の裏に隠して見えない事にした。

 馬車に揺られながら考える。
 流れる景色と人の姿。
 もしも、もしも私が拾われたのが人だったら、今どんな風に生きていたんだろう。

 ぎゅっと、顔にかかる髪を引っぱった。
 今、誰にも見せられない顔をしている。


 「着いたぞ」との声に、弾かれて顔を上げた。リオールトさんの怪訝な顔。その横の窓の、見覚えのある木立。
 昨日のあの子に、今から会うんだ。

 リオールトさんは当然のように先に降りて、私の手を引いた。今度はちゃんと、つま先と踵で地面を踏めた。昨日の夕ご飯でだって、人の姿に怯えたりしなかった。もう大丈夫。ちゃんとひとりで歩ける。
 そっと離された手を、目で追ったりもしない。
 私はリオールトさんの背中について、目的の小さな家へ歩いた。

 ノックの音に、すぐ扉は開いた。どうやら近くにいたらしい。金色の髪と整った顔に気圧されて、覚悟が早速揺らぎかける私とリオールトさんを見比べると、にこりと笑って扉を開放する。
「どうぞ、ベルノさん。伺っています」
「ああ、失礼する」
 入っていいのか迷う前に、さっと手を引かれた。後ろで扉の閉まる音。繋がった手から見上げたリオールトさんは、視線に気付くと目を和ませた。手を掛けさせているのに、ほっとしてしまうのがいやだ。

 居間に案内されるまでに、白衣を羽織った『イーシャ』が顔を覗かせた。リオールトさんと並んで立つ私に、やはりにこりと笑いかける。
「着替えたらすぐ行きます。トリト、お茶をお願い」
「分かりました」
 トリトと呼ばれたその人に従って、勧められたソファーに掛けた。いい匂いのするお茶が、磁器のカップに満たされて差し出される。お礼を言って、その後隣のリオールトさんも立ったままの『トリト』も口を利かないので、私は黙って俯いていた。
 息が詰まりそうな空気に締め付けられそうになった頃、やっと少女が現れる。金髪の『トリト』と揃いの白いシャツとゆったりしたズボンは、あまり女の子らしい感じではない。宿で見かけた女の人は、パンツでも装飾品で胸や指を飾っていたから、ちょっと不思議な感じだ。だけど、家の中ならそんなものなのかもしれない。
 彼女は向かいのソファーに腰を下ろすと、まったく減っていないカップを見て変な顔をすると、私に勧めて自分でも口をつけた。習って飲んでみると、まだ熱い。そんなに時間は経っていなかったのだと驚いた。
リオールトさんがいきなり言った。
「君はこの子を知っているのか」
 イーシャはカップを置いた。
「知っています」
 今お茶を飲んでいなくてよかった。絶対カップ、落としていたと思う。
 カップを割らなくて済んだのはいいが、それきり何も言わずに見合う両者に私の心拍数はやたらに上がった。
 イーシャが先に息をついた。頭をさすりながら言う。
「昨日は心臓が止まるかと思いました。どうしてリオ兄さんと?」
「拾ったんだ。ネージュの路傍で」
「ネージュ?」
 イーシャはとたん不安そうに、私の身体を検分するように見た。思わず縮こまると、そこで初めて気付いたように「ごめん」と困ったように笑う。少し彼女のイメージが分からなくなる。イーシャはもう一口お茶を啜ると、なんでもない事のように私に尋ねた。
「リオ兄さんには、なんて?」
「なんて、って?」
 私は困ってリオールトさんを見上げた。質問の意味が分からない。リオールトさんも反応しづらそうにイーシャに答える。
「記憶がないそうだ。身よりも分からない。……君が何か知っていたら、教えてもらいたいんだが」
「記憶が」
 イーシャは目を伏せる。それは驚いた仕草には見えなくて、私は違和感を覚えた。
「……私とこの子とは、秘密を持った仲間……のようなもの、でした」
 リオールトさんは黙考しながら、ちらとこちらを一瞥する。
「どういう仲間かは聞けないのか?」
「言えません」
「そうか」
 リオールトさんは息を吐いた。私も胸の中で同じようにする。自分のことなのに、聞けないのかな。
 イーシャは場を和ませるようにして笑うと、こちらを見ながら提案した。
「彼女を任せてもらえませんか。記憶に繋がるものがこの家にあるかもしれない。少しは私も協力できる」
 さらりと言われた言葉だったけれど、それは私にとって、大きな影響のあることだ。
 条件反射みたいに隣を見上げると、視線が通った。自分で決めろとその目が言う。
 私は少し逡巡して、イーシャをちゃんと見た。黒い瞳が揺れている。何か強く願うことのある色だと分かった。
 気がつけば、「お願いします」と口が喋っていた。

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