2物言う獣
いいものを見つけたよ、と、彼の双子の弟は、カナフシに向かって歯茎をむき出しにした。
「良
いもの?」
「うん。カナにもみせてあげようか」
みせてあげる、と弟がめずらしく弟らしい顔をして擦り寄ってく
るので、兄のカナフシは、弟の横腹を叩いて、それなら夕刻にと、約束を交わしたのである。
緑のこうばしい匂いに、はっとして体を起こした。焦りながら辺りを見渡すが、平和な森の風景が広がっているばかりである。それでも私は妙な違和感を拭えず
に、寝癖を直しながら所在なく地べたに座った。短い草がふわふわとお尻の下に生えていて、直接しゃがんでいても痛かったり、冷たかったりはしなかった。
――
たしか、もっと痛かったはず。
私は、自分の頭に勝手に浮んだ考えにぎょっとする。知らず知らずのうちに横腹に触れたが、痛みなんて
ない。当たり前だ。怪我なんてしていないのだから。そう思いつつ、もう片手を肩に伸ばし、そこでも自分の行動の意味にたどり着けずに首を傾げた。
なんだろう、何かとんでもない事があったはずだ。でも思い出せなかった。私は昨日、いやここで目覚める前、何をしていたのだろう。普通のはずだ。そう、普
通に、いつものように……いつもって、何してたっけ?
「あ、あれ?」
つい頭を抱えてしまった。なんだこれは、
ド忘れってやつだろうか。それにしたって何も思い出せないなんて、これじゃまるで。
「――記憶喪失?」
――そ
んなばかな。
つぶやいてすぐさま否定した。そんな、「わたしはどこここはだれ」じゃあるまいし。
そうだ、私
は、自分の名前がちゃんと言える。ここがどこかは分からないけれど、自分が誰かってことは、きちんと。……きちんと。
「ああ、も
う!」
たまらず髪をぐちゃぐちゃにかきまぜる。混乱しているんだ、きっと。落ちついたら、冷静になったら、きっと思い出せる。その
はずだ。
私はぺたんと座ったまま、目を閉じて、ゆっくりと呼吸した。風の音や木の匂い、肌に降り注ぐ優しい日差しが、際立って五感
に訴える。私はたっぷり三分ほどそうして、静かになった頭で、やっと結論にたどりつく。そして自然と声にしていた。
「ここはどこ?
私は、だれ、だっけ?」
しばらくぼうっとしていたら、涙がつっと頬を伝って、それを指で
拭うと、もう次から次から溢れて止まらなくなった。
心に聞いても、何も答えが返ってこなかった。よく、自分の胸に聞けって言うが、
あんなのはサギだ。誰が言ったのかは、忘れてしまったから、 文句を言う事はできないけれど、もし思い出したら、いや、思い出して、絶対訴えてやる。
「も
う、誰よう……」
子供みたいに泣いている。べそべそみっともないったらないが、よく考えたら記憶が思い出せない、確かな事がまっさ
らなのだから、まさに子供そのものだった。保護する人のない分、私の無知はみじめだ。そう思うとまた泣けてきて、わっと顔を覆った。
「――
だれだ?」
「……そんなの、わた、わたしが、知りたいよ」
応えた後で、私はのろのろと顔を上げた。そして
ぎょっとして後ずさる。緩慢な頭に、ガツンと一発喝が入ったようで、つい目を見開いてしまう。
そこには、巨大な獣がいたのである。
「え
ええええ」
「おい、おまえ」
しゃべった! 唸るような声のなかに、しぼりだした人の言葉がかろうじて拾える。
「なっ
なな、なに? なんですか?」
「うん」
とっさにひねり出した返事がお気に召したのか、獣は私の胸に、大人のこ
ぶし大の鼻を押し付けてきた。
――わっ、水っぽい。
退くタイミングを逃して、今からやめてもらうのも怖いの
で、そのままにさせておくと、獣はくん、とちょっとかわいい声で鳴いて、あっさり踵を返した。つい追いかけようとして、やめる。いくら寂しいからって、知
らない獣に付いていくのはどうだろう。それでも理性と別に心細がる自分の情けなさにうちひしがれていると、その獣は尻尾を左右にぱたんぱたんと振って答え
た。なんとなく、このままでいろと、言われた気がする。寂しさが作り上げた妄想かと思って、悲しくなったが、他にどうもできないので、私はその場にしゃが
みこんだ。
膝を抱えて、ほっと息をついてみると、見知らぬ環境はそのままなのに、先よりも恐れを感じない。
――
なんとか、なるのかな。
なんとかしてくれるのだろうか。
私は獣の消えた林の陰を、否定しようのない心細さで
しばらく見つめていたが、いつしか疲れて、自分の膝の上で寝入ってしまった。
涼しい風が
吹いていた。少し肌寒いと言ってもいいかもしれない。私は膝を抱き寄せて、そこに毛布がないことに気づくと、胸を切なくして顔を上げた。即刻、切なさは
吹っ飛んだ。
「おきたのか」
獣はそこにいて、いつの間にか地面に転がっていた私を見下ろしていた。尖った犬歯
が、真っ赤な舌が近い。呆気に取られていると、べろりとなめられた。犬のような顔をして、舌は猫のようにざらついている。
「お、おは
ようございます……」
自分で言っておいてツッコミを入れたいが、獣は満足そうに歯をむき出した。これは、たぶん、笑っているのだろ
う。よだれを額に受けながら、そうでなかったら困る、と、私は静かにそれを拭った。
とりあえず、と起き上がろうとする。獣にさえぎ
られて見えなかったが、もう夕陽の時刻らしい。手をついた草むらが、仰ぎ見る梢が、茜の色に染まっている。背中を支えてくれる獣の毛皮も、たっぷりの日光
を浴びて暖かい。
――きれい。
こんなに夕陽に見惚れた事はきっとない。覚えていないが、きっとそうだ。また
鼻の奥がツンとして、ぐずぐずし出す私を、獣は湿った鼻でなぐさめた。
「あ、ありがどー」
きたない顔で告げた
お礼に、頷くような動きをして、ごろごろ唸った。言葉を言うのはあまり得意じゃないのかもしれないと、私は鼻をすすりながら思った。
「そ
れで、さっきはどうしてた……ん、ですか?」
もう話しかけるのに抵抗はなかった。順応性が高い。さすが子供だと、少し自嘲気味にな
る。けれど、泣いているのをなぐさめてくれて、何より一 人ぼっちから抜け出させてくれた彼、彼女かもしれないが、とにかくこの獣を信用しないのは何だか
バチあたりな気がするのだ。それに言葉が分かるのだから、話しかけない手はない。
獣はうーんとちょっと考えるみたいにしてから、べ
ろっと私の手をなめた。待っていれば、自然と分かるよ、という目で見上げられた、気がする。電波だなんだと言われたって、仕方がない。獣がそれ以上の行動
を起こさないなら、私もそれに習う他にないのだ。
そうやって獣との一方的な会話をひとしきり続けて、日が山に入ってしまうころ――
それは来たのだった。
始めは風の音かと思った。
でも、獣の耳がピンと立ったり、他の獣らしい遠吠えが聞こえ
たり、終いには風に乗って荒っぽい息づかいが聞こえ出したので、勢いつかんでしまった獣の太い首をたどって彼の顔を見上げた。こころなしか、厳しい雰囲気
をたたえている。
気のせいだといいな、という私の儚い願いは、突如側の草むらから飛び出してきた一匹の別の獣によってあっさりと打
ち砕かれた。
「えっ?」
反応の鈍い私は、その一匹がさっきまで傍らにいた彼によって地べたに押さえつけられる
まで、彼が離れた事に気づかなかった。喉に巨大な牙を立てる寸前で、睨みつけられると、哀れな若い獣は意識を失ったようだった。そんな獣をぽいっと放っ
て、四方の草むらに牙を剥きだしにしながら、私を長い尾で庇ってくれる。私は彼が、とても美しい事に、とても強い事に気づきながら、耐えられなくなって叫
んだ。
「だめっ! やだ、やめて!」
―― 死んでしまうのは、いやだ。
美しい獣は、い
きなり首に飛びついてきた小さな子供に驚いたようだった。やんわりと外そうとするが、私は余計に取りついた。
「はなして」
「い
や! だって、もう、わたしのせいで」
自分でも何をしているのか、どうしてこんな奇行に出たのか分からなかったが、止めなければな
らないということだけが頭に、いや、頭にこびりついた誰かの声を受けて、心がそう叫んでいた。
――来てはいけない。死んでしまう。
あなたが殺されてしまう。
そう、伝えなくてはならなかったのに。
「なあ」
「いや、いや
だったら」
「わかった」
「……ほんとに?」
顔を上げると、獣が穏やかな目でこちらをじっ
と見ていた。優しく、背中に乗るよう促されて、私はおとなしく従った。でも離したくなかったというか、腕が固まってしまって離せなかったので、首にはまだ
つかまっている。
彼が高くひと鳴きすると、いつの間にか草むらから出てきていた他の獣たちがすっと道を開けた。鼻を伏せてばつの悪
そうな顔をする彼らに、とても先ほどまでの勢いは見られない。そんなにこの獣が怖いのだろうか、いや怖いけれど、と頭を悩ませるうちに、獣は足を止めた。
鼻の先を追いかけると、一本の木の前に、黒い人影が見えた。
目を凝らそうと凝視したので、その影がすっと鈍明かりの中に現れた時、
ものすごい眼で睨まれていることに気づいて、私は驚きのあまり地面に転がり落ちてしまった。獣が気遣わしげな鼻を向けてくるのに対して、人影――私とそう
歳の変わらなく見える少年は、ふんと見下ろしてきた。
「いい格好だ。引きずりおろす手間が省けた」
「――カナ」
――
カナ?
獣がとがめる響きで少年を呼んだ。カナというのは彼の名前らしい。それにしても、カナ。どこかで聞いた、むしろ聞きなれた響
きだ。友達にでも、カナちゃんがいたのかもしれない。
私が草の上で物思いにふけるころ、カナと呼ばれた少年はさもいやそうにその様
子を見てきて、次に獣に向かって言った。
「まさか、いいものというのは、これじゃないだろうな」
これ、と指差
されて、私は顔を上げる。あまり良い気分はしないが、自分の話題なら聞いておこうと、カナと一緒になって獣の言葉を待った。
「うん」
小さく頷いた。獣はさりげなく私に寄り添ってくる。庇ってくれるのだな、と思って、また少し唇を噛んだ。カナはものすごくいやそうな顔をした後、少し考え
て、今度はわざとらしいくらいの笑みを見せた。
「喰らう方の意味でなら、カラ、俺は賛成するが」
「カラ? 食ら
う?」
「カラは、おれ。くらうのは……」
疑問の声を上げると、獣はふふと胸を張るようにしてから、次には微妙
そうな目になって口をつぐんだ。私が喋るのが気に入らないのか、カナは獣――カラの言葉を引き継いだ。
「お前だよ、人の子」
「……
私?」
「カナ」
「黙ってろ。――俺たち鬼は、お前ら人を食べるんだよ。その気楽ぶりをみると、本当に教わらな
かったのか。相当親に恵まれなかったと見える」
理解が追いつかずに怪訝な顔をする私をいたわしそうに見てから、カラは姿だけなら人
と変わらない少年に言った。
「カナ、これは人じゃない」
「えっ?」
驚くのは私だった。声
にはしないものの、カナも変な顔をした。私を見る目が、不審そうなものに変わる。
「しかし鬼には見えない」
と、
カラやほかの獣と似ても似つかない体の少年はつぶやいた。思っても口には出さない。これは我ながら賢明だと思った。
「鬼でもない。べ
つのもの。なにかはちょっと、わからない」
「―― じゃあ食ったら、どうなる?」
私たちの方へ手持ち無沙汰に
近寄ろうとする獣たちを制しながら、カナは物騒な事を言う。私は安全な毛皮に擦り寄った。
「わからない。でも、人よりも毒かもしれな
い」
――人よりも?
どういうことだろう。人が毒になるなら、なんで食べるんだ。そもそも私に毒なんてないの
に……ないよね?
つい腕のにおいをかぐ私の疑問を汲んで応じようとするカラを止めて、カナはしばし熟考した。それから毛皮にしがみ
つく体勢の私をいまいましそうに一瞥した後、ため息をついて、「しかたがない」と言った。
「館さまに申し上げよう。おい、そこのガ
キ、なめた真似をしたらその場で食い殺すからな」
「…… うん」
頷かなくては今すぐそういう事態になりそうな
剣幕だった。ついカラの毛皮を握ると、またすごい顔になる。私はひらめいた。そうか、そういうことか。
――カラのことが、大好きな
んだね。
この人とも、もしかすると、仲良くなれるかもしれないな。
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